この話題は感情が先に立ちやすい。まず前提を明確にしておきたい。ここで扱うのは、夫が外で働き、妻が専業で家事と育児を担う世帯に限る(特殊事情は除く)。育児のない専業家事のみのケースは、一般に負荷が下がるため論点から外す。
両者の「大変さ」は同じ物差しでは測りにくい。外の仕事は締切や評価が制度化され、責任の所在も見えやすい半面、ある程度の裁量が残ることが多い。家事と育児は逆に、予定が子どもの状態に従属し、中断が常態になる。失敗の痕跡も性質が違う。仕事の失敗は外部に刻まれやすいが、家事育児のほころびは生活の安全や機能に直結し、外からは見えにくいまま負荷だけが積もる。成果の見え方も対照的だ。賃金や評価に結びつく仕事に対し、家事育児は習慣に溶け、「できて当たり前」に回収されやすい。経験の持ち出しやすさも異なる。職務経験は履歴として転用できるが、家事育児の技能は世帯内に吸収され、可視の履歴になりにくい。回復の仕方も同じではない。仕事の疲労はオフで切り分けられる余地があるのに対し、家事育児は終わりの線が曖昧で、休息の時間にも割り込みが起きやすい。こうした質の違いがある以上、「どちらがより大変か」という単純比較に意味はない。
私は男で、仕事の負荷と手応えを知っている。社会に編み込まれている感覚が自分には合い、やりがいを感じる。一方で、妻の家事育児には敬意しかない。自分にはやり切れないと思うことも多い。できる範囲で手伝ってはいるが、選べるなら私の場合は仕事を選ぶだろう。
この前提の男女に、立場を交換したいか?と聞いたとする。「できれば変えたくない」と答える人も少なくないだろう。逆に、感情の勢いで「変えたい」と言う人もいるだろうが、落ち着いて考えれば本心は別に、ということもある。結局この問いは、難易度の客観評価というより、適性や人生設計、そして慣れの問題に近い。歴史の流れの中で、社会は個々の選択と制度の制約が折り重なって今の分担を形づくってきた。近年、共働きが増えたのも、価値観が急に入れ替わったからというより、賃金水準や物価、雇用の形、リスク分散といった環境が変わり、人々が適応を迫られた結果だと見る方が自然だ。
そのうえで、選択肢が開かれていることは重要だ。女性が働きたければ働けること。男性が家事を主に担いたいなら、その道を選べること。ただし選択は常に需給と制度の枠内に置かれる。望めば必ず実現するわけではないし、世帯の収入構成、地域の保育環境、職の流動性などが現実の線を引く。その制約を前提に、どの線を引き直せるかを具体的に考えるほかない。
議論が不毛になるのは、この質と制約の違いを潰して同じ物差しで勝敗をつけようとするからだ。優劣を決めるより、今ここで何が問題になっているかを見極め、手当てできるものから手当てすることが大切なのではないだろうか。