ジョーカーは「自分の正義」が社会にとって正義ではないと知っているが、民衆は自らの正義を疑わない。

日本では、生活保護受給者や移民といった弱者が、同情の対象であると同時に激しい罵倒や排除の標的にもなっている。表向きは「支援すべき相手」とされながら、ネット空間や日常会話では「社会の負担」「ずるい存在」として扱われる。この二重構造は、かつてドイツの大衆がホロコーストを黙認した心理と響き合い、アメリカなど他国でも同じような状況だ。背景にはまず、欲望が他者を真似ることで増幅するという模倣の連鎖がある。限られた資源をめぐる競合が高まると、共同体は暴力を一点に集中させて自己崩壊を避けようとし、もっとも反撃しにくい対象が「社会保障に寄生する者」や「文化を乱す移民」として選ばれる。

努力と報酬が釣り合わないと感じる人々は、その不快感を自分の落ち度ではなく外部のせいにすることで心の均衡を保つ。「自分たちこそ搾取されている」という被害者意識が、「さらに弱い他者を攻撃する行為」を自然な正義へと置き換えていく。この攻撃衝動を支えるのが、自分たちの信念が虚構である可能性を薄々知りながら、社会の安定を理由にあえて信じ続けるという、半ば自発的なイデオロギーの受容だ。排外的言説は日常的にこの共同幻想を補強し、敵意を「正義」へと変換する装置として機能している。

たしかに、排外的民衆の多くもまた、報われない労働や社会的断絶のなかで孤立し、構造的に傷つけられてきた存在である。彼らが抱える憤りや絶望感には、単なる感情の暴走ではなく、長年積み重ねられてきた剥奪や無力感の堆積がある。その意味では、彼らもまた“被害者”であり、社会の片隅で声を上げられずにきた「語られない痛み」を抱えているという点では、映画『ジョーカー』の主人公と同じ地平に立っているようにも見える。しかしここで決定的なのは、その痛みにどう向き合い、どう処理しようとするかの違いである。

ここで映画『ジョーカー』の主人公と排外的民衆を比べると、決定的な差が三点に浮かび上がる。第一に自己認識である。ジョーカーは、自分が狂気に陥り社会とずれていることを直視し、その痛みを可視化する。対して排外的民衆は、自分の苦しみを直視せず、原因を外部へ投影することで「正常な自分」を構成する。第二に倫理観の違いがある。ジョーカーは自分の正義が社会的正義ではないと理解したうえで暴力に踏み切るが、民衆は「我々こそ被害者を救う側だ」と信じ、思考停止のまま排除を遂行する。第三にアイデンティティの保持方法が異なる。ジョーカーは社会的役割が崩壊したあとの空白を受容するのに対し、民衆は「普通の日本人」「納税者」といった物語を盾にし、その物語を揺るがす他者を排斥する。似たような出発点から始まりながら、両者の行き着く先はまったく異なる方向を向いている。

この差異は歴史にも先例がある。ナチス期の官僚アイヒマンは「命令に従っただけ」と語り、自分を正義の執行者と信じた。排外的民衆も同じく「被害者を守る正義」を掲げ、内省なしに暴力を肯定する。制度の不透明さ、センセーショナルな報道、エコーチェンバー化したプラットフォームが怒りと不安を増幅し、標的を定めやすい弱者に攻撃を集中させる現在の状況は、感情が政策判断を上書きする「感情の政治」の典型である。

結局のところ、ジョーカーは自分の正義が社会にとって正義ではないと知りつつ暴力を選ぶ自覚ある狂気を体現する。一方で排外的民衆は、自分たちの排除行為を公的正義と信じ込み、その信念を疑わないまま弱者を攻撃する自覚なき暴力を行使する。この非対称性こそが、現代社会における排外主義と弱者蔑視を加速させる最大の駆動力である。