センスという誤読、美しさを読む人と壊す人

「センスがいい」という言葉は、かなり雑に使われている気がする。

実際には、そこには少なくとも二種類ある。ひとつは、本当に能力そのものが高く、吸収も速く、自分の内側から次々に何かが出てくる人だ。このタイプは、既存の美を上手くなぞるだけではなく、まだ形になっていない感覚や形式まで押し出してくる。だから数はかなり少ない。

もうひとつは、社会の中ですでに美しいと認知されているものを、高い精度で読み取れる人たちだ。そして一般に「センスがいい」と呼ばれる人の多くは、こちら側だと思う。なぜなら社会が評価しやすいのは、新しいものそのものではなく、すでに承認された美の文法にうまく乗っているものだからだ。

この後者は、創造力がないという話ではない。空気、時代感、共同体のルール、様式美、そういったものを読む力が強い。ただ、その本質は創造というより読解に近い。すでにある座標の中で、何が美しいとされるのかを正確に把握し、整える力だ。

私が前から気になっていたのは、このタイプの人たちが、その後にあまり大きく変化しないように見えることだった。写真でもデザインでも、最初からセンスがいいと言われていた人が、その後に劇的に飛躍したり、まったく別の次元に変わったりする例は、そこまで多くないように思う。

これは努力不足というより、むしろ逆だ。最初からある程度の完成度を出せてしまうから、社会からの承認も早い。承認が早いということは、その様式の中で自己が固まりやすいということでもある。正解に早く辿り着ける人ほど、枠組みそのものを疑う必要が薄くなる。すると成長は止まるというより、様式美の反復になりやすい。

つまりここで起きているのは、能力の不足ではなく、能力の向いている先の違いだ。既存の美を読む力は、その中での精度を上げることには強いが、様式の外へ出る圧にはなりにくい。読むことには優れていても、壊すことや更新することとは別だからだ。

もちろん、そこから抜けていく人もいる。技術や観察や思考が加わり、自分の成功パターンそのものを壊せる人は、後から別の段階に進む。ただ、それは簡単ではない。社会は様式の更新より、様式の再現を褒めやすいからだ。理解されている美は評価しやすいが、まだ理解されていない美は扱いにくい。

結局、「センスがいい」という言葉の中には、創造の力と、様式を読む力が混ざっている。ここを分けて見ないと話は曖昧になる。

私の感覚では、社会が普段褒めているセンスの多くは後者だ。すでに美しいとされたものを感知し、それをうまく整え、場に合う形で出せる力。これは確かに価値がある。だが、それは創造そのものとは少し違う。創造とは、既存のルールの中で上手くやることではなく、ときにそのルール自体を押し広げることだからだ。

だから私は、誰かが「センスがいい」と言われているとき、その人が読んでいるのか、作っているのか、様式の中で整えているのか、それとも様式そのものを少しずつ動かしているのかを、見るようにしている。