多くの人が「苦しみを分かち合う」と言うとき、それは実のところ“他者の痛み”に向かう決意ではなく、“自分の苦しみを誰かに軽くしてもらいたい”という主観的欲求にとどまっている。そこには「共苦」の倫理ではなく、「代理苦」への期待が潜んでおり、他者の苦しみを自らのものとして引き受けようとする意思はほとんど見られない。
本来、分かち合うとは、「痛みを共有できる」という幻想に基づくものではなく、むしろ、痛みは共有不可能であるという限界を受け入れたうえで、それでもなお他者の苦しみに歩み寄ろうとする、不器用で誠実な決意のことだ。