今回のベネズエラの件で問題だと思うのは、決定的な想像力の欠如。
社会のルールは本来、最初から多様な価値観や概念が走れるように作られてる。だからこそ、そのレールがきちんと設計されていれば、互いに妥協しながら運用できて、攻撃・迫害・差別が安易に生まれない。よくできたレールは、多様な価値観が走っても他人を踏みつけにくいように作られた仕組みだ。
ところが今回みたいに「攻撃を容認するレール」を敷いた瞬間、話が変わる。多様な価値観が妥協し合って回っていた社会に、攻撃の正当化が運用可能な選択肢として入り込む。すると、そのレールの上では、どんな価値観や概念でも同じ攻撃を「正しい」と言えてしまう。攻撃が各陣営の言葉で承認される状態になる。
では、次も自分たちが攻撃されない保証はどこにあるのか?そんなものはない。むしろ、さまざまな価値観がそれぞれの正義で攻撃を容認できるようになった時点で、いずれ自分たちが攻撃される側に回る。
結局「自分は標的にならない」前提でしか肯定できないなら、それは正義ではなく利害で他人を食い物にしているだけだ。