早熟という言葉は、たいてい褒め言葉として使われる。早く理解できる、早く書ける、早く言語化できる。周囲は「すでに完成している」と判断し、本人もその評価に救われる。しかし早熟は、成長の前倒しというより、固定の前倒しになることが多い。自己像が早く固まると、思想は広がるより先に守りに入る。守りに入った思想は、概念を開く道具ではなく、自己像を維持する装置へ変質する。多様性が欠けるのは知的に浅いからではなく、固定された自己像を揺らすものを排除する方向に動くからだ。
彼らは若い頃から、言葉で世界を整理できてしまう。言葉で整理できるということは、世界を「説明できた感じ」にできるということでもある。説明できた感じは便利だし安心もする。だがその安心が強いほど、異物は雑音になる。他者の視点、矛盾、曖昧さ、条件付きの答え。そういうものは本来、思考を広げる材料だが、防衛の局面では自己像を腐らせるようにすら見える。すると思考は、矛盾を抱える方向ではなく、整合性を研磨する方向へ向かう。言葉は増えるのに、受け取れる現実は減る。ここで「複雑なのに浅い」という現象が起きる。浅いのは情報量ではなく、保持できる矛盾の幅だ。
三島由紀夫について語ると、いつも不思議な現象が起きる。作品を読んだ話より先に、語彙のほうが先回りする。天才、美学、純度、覚悟。本人より先に、完成した像が立ち上がる。像が立ち上がると、読む側は楽になる。像に合う部分だけ拾えばいいし、合わない部分は「理解が浅い」で片づけられる。こうして三島は、読まれる前に崇められることがある。しかも崇める側がちょっと気持ちよくなれる。高い言葉を使うと、自分まで高くなった気がするからだ。
もちろん内面を断定するつもりはない。ただ、外から見て「そう見える構造」が立ち上がる。三島には、弱さを弱さのまま置けない種類の感受性があるように見える。弱さがあること自体は普通だが、それを生活の摩擦で処理するのではなく、様式に変換してしまう。弱さが文体になり、象徴になり、儀式になり、最後には「公共の語彙」に接続される。天皇、国軍、名誉、伝統、憲法。こうした語彙は、個人的な葛藤を共同体の物語へ翻訳する力を持つ。翻訳が進むほど、私事の痛みは「私の問題」ではなくなっていく。ここで思想は、世界を開くためというより、自己像を成立させるための道具に見える瞬間がある。
このとき三島の弱さは、単に未熟だから出たものというより、”弱さを弱さのまま置けない美学”(コンプレックス)と感受性がもたらした危うさとして見える。危うさは外からは浅さに見えることがある。深い一点は確かにあるのに、出口が狭い。複雑な言葉があるのに用途が単一に見える。しかも世間は、こういう「完成」を大好物として扱う。劇的で語りやすいからだ。人生のエピソードだけで“文学っぽい顔”ができる。作品を読まずに語れる三島、という便利さまで付いてくる。便利な像は、議論より信仰に向かう。そうなると、三島の理解というより、三島を使った自己陶酔が回り始める。
さらに厄介なのは、美学が社会や倫理の領域にまで侵入しやすい点だ。美学は速い。結論が速い。複数性に付き合わない。だから気持ちがいい。けれど社会や倫理は基本的に遅い。利害がぶつかり、妥協し、制度に落とし込み、失敗し、修正する。遅さが要る。そこへ美学の速さを持ち込むと、妥協は醜く見え、手続きは弱さに見え、最後は「きれいに終わる」ことだけが価値になりやすい。きれいに終わるために世界を切り取る。切り取れない現実は無視するか敵にするしかなくなる。多様性の欠如は、ここで現実の生活として発生する。
私の中では、この対比として同じ早熟の象徴としてランボーが立ち上がる。ランボーは若くして頂点に立ち、その後に芸術活動をやめた。ここを「飽きた」「逃げた」と読むのは簡単だが、むしろ私は、あれを固定装置の破壊として見るほうが腑に落ちる。天才詩人という役割、言葉の支配、承認の回路。それらが自己像の甲冑になっていく前に、回路を断ち切った。作品で自分を固めるのではなく、作品で自己像を溶かし、最後には沈黙へ行った。沈黙は正当化も物語化もしない。だから公共の語彙で飾り立てる余地が少ない。飾れないから、崇める側も困る。困るものは神話になりにくい。ここに妙な健全さがある。
ランボーのイリュミナシオンの作風から「コンプレックスが消えたように感じる」という感触は、この回路の断ち切りに由来する。コンプレックスは多くの場合「保持される中心」だ。私はこうでなければならない、という中心がある限り、そこに傷も誇りも絡みつく。だが自己像が溶ける方向へ進むと、その中心が維持できない。維持できない以上、コンプレックスも居場所を失う。消えたというより、維持されなくなった。ここが三島との逆転点だ。三島は維持の回路を精密化し、様式で自己像を完成させていく。ランボーは維持の回路を壊し、完成の誘惑ごと手放す。
早熟の欠点は、才能の不足ではなく、才能が固定に奉仕してしまうことだ。しかも固定は本人の内面だけで起きるのではない。社会の褒賞構造が固定を加速する。未決で揺れている人より、断言できる人が評価される。条件付きの答えより、旗印が拡散される。検討より結論。議論より身振り。こういう環境では思想の成熟は遅く見え、思想の固定は速く見える。早熟は、そのスピード感と相性が良すぎる。だから早熟は止まる。止まることが価値になるからだ。
三島が象徴的なのは、弱さを生活で処理する代わりに、弱さを様式へ変換し、その様式が世間の欲望に回収されやすい形になっていたように見えるところだ。結果として「完成した像」が長生きする。長生きする像は、読む側を楽にする。楽になるほど、複数性に耐える地味な成熟は見えにくくなる。だから三島の問題は、三島だけの問題でもない。担ぎ上げるこちら側が、手軽な重さを欲しがっている。重さを手軽に消費したい。その欲望が、早熟の固定をさらに固くしていく。
ランボーが示したのは、二択に乗らない方法。徹底でも崩壊でもなく、回路の停止。回路の停止は地味に見えるし、語りにくい。だが語りにくいからこそ、周囲の欲望に回収されにくい。早熟が成熟へ向かうとしたら、おそらくこの地味さに近い選択ではないだろうか?断言を遅らせる。結論を急がない。自己像を供給しない。語る語彙を減らす。これは弱さではなく、複数性に耐えるための技術となるはずだ。