事実より感情が勝る瞬間

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのは、私がまだ子供の頃だった。当時、世間を震撼させたこの凶行。なぜ高学歴で知識に恵まれた人々がカルト集団に魅了され、狂気へと身を投じたのか、幼い私には到底理解できなかった。終末思想が蔓延し、ノストラダムスの大予言がもてはやされていた時代背景も、子供心には何か異様な遠い世界の話に思えた。しかし大人になり、時代が巡る中で、あの不可解さが再び目の前に立ち現れてきたように感じている。

今、SNSやメディアを見渡すと、有識者や高学歴の人間が何の根拠もない陰謀論に浸り、虚構を追いかける姿が映し出されている。地に足をつけた理論を手放し、事実から遠く乖離した空想へと流れていく様子には、かつてのオウムの幻影すら重なる。何かにすがりたい、あるいは世界の不条理に対する解答が欲しいという衝動が、人間の理性をいとも簡単に麻痺させるのだろうか。終末思想が蔓延したあの時代と、現代の情報過多な社会とでは手段は違えど、心理的な根源に大きな差はないのかもしれない。

だが、ただそれだけではない。この国における集団的な思考の流れには、ある種の不連続性と自己矛盾が常に付きまとう。そのことは政治的な動きにも顕著に表れている。例えば、民主党政権の頃、多くの人々が”霞ヶ関埋蔵金”や”無駄の削減”を旗印に期待を寄せた。減税や行政改革は絶対的な善とされ、無駄を省けば明るい未来がやってくると信じられていた。

しかしその期待は裏切られたかのように急速に失望へと転じ、いつしか減税や無駄削減の言葉は、民主党そのものを批判するための槍玉に変わった。失策は多々あったとしても、彼らが掲げた政策の理念そのものが全否定されたかのようなこの急展開に、私は違和感を抱いた。そして、奇妙なことに、時が経つにつれ今度はその批判者たちが、同じように減税や行政改革を掲げる別の政党や指導者を支持している。

アメリカのトランプ政権がUSAIDを解体し、省庁の無駄を削減すると喝采を送る日本人たちを見たとき、私はある種の失望を感じた。あのとき民主党政権をあれほどまでに叩いたのは何だったのか?単に過去を忘れた結果なのか、それとも理屈を超えた感情がすべてを支配しているのだろうか。好む者には寛容で、憎む者には何をしても許さない、そのような二元論の中で、彼らは矛盾を矛盾とも思わずに歩んでいる。

オウム真理教の信者たちもまた、同じような矛盾を抱えていた。入信当初は、仏教的な教えや瞑想による悟りといった、いわば精神的な成長を目指す理念に惹かれた者が多かった。彼らの多くは高い知性と教養を持ち、科学や論理への信頼が強い人間だった。しかし、その理念は次第に歪められ、カルト内部の排他的な論理と暴力的な終末思想へと傾倒していく。これに対して違和感を抱いた者もいただろうが、すでに深く組織に関与してしまったがゆえに、その矛盾を正面から受け止められなかった。

彼らが集団の中で生きるうちに、オウムという「絶対的な正義」を前提とした思考が染み付いていった。たとえば、外部の世界を「堕落した敵」とみなす思想は、個々の倫理観や論理的な思考を次第に麻痺させ、カリスマ的な指導者の命令を無条件に正当化するまでに至った。そして、一度この思考の枠組みに囚われると、自分たちがかつて信じていた理念とは正反対の行為、毒ガスの散布という凶行にすら、疑念を抱くことなく従ってしまったのだ。これは単なる洗脳ではなく、もともとの理想が歪んだ形で変質し、理性と感情が相互に矛盾しながらも、集団の勢いに流されていった結果である。

こうした心理的な変化は、現代の陰謀論や政治的な信念の揺らぎにも通じる部分がある。オウムの信者がかつて悟りを求めたはずの行動が最終的に暴力に変わったように、減税や改革といった政治的な主張が、状況によっては全く逆のものに転じたり、あるいはその矛盾に気づかず支持し続ける姿が見受けられる。特定の指導者や集団に共鳴するうちに、その一貫性を見失い、かつて批判した政策に対してすら賛同するようになる。この根底には、集団の信念や雰囲気に飲み込まれたとき、人は自分自身の過去の立場すら忘れ、感情が理性や事実を凌駕する。

人間というのは根本的に理性だけでは動けない存在なのは理解できる。好き嫌いや感情が判断を凌駕し、そこに事実や論理が後付けされる。それゆえに、時代の空気や一時の熱狂が、個人であれ国家であれ、平然と過去の立場や信念を塗り替える。この柔軟さは生存において必要な適応力でありながら、一方で致命的な過ちを繰り返す要因にもなる。

かつてのオウムの信者たちも、今の陰謀論に嵌る人たちも、その根底には同じ欲望があるのかもしれない。