以前は、SNSで朝から晩まで論争を続ける人たちの目的が腑に落ちなかった。正義感や価値観や思想を伝える手段・自己表現など、いずれも説明としては足りない気がした。自分にも似た気質があることは理解しつつも、殆どの時間を投げ打ってまでそれを続ける理由が見えなかった。しかし、いつの間にかSNS上で議論の場にいる誰よりも的確に論点を組み替え、相手の足場を崩し、常に優位に立てる状態に入った。言葉がよく回り、反論を先回りし、相手をねじ伏せることが技術として再現可能になった。
そのとき初めて、快感が立ち上がった。議題の善し悪しでも思想の練度でもなく、状況そのものが快感という状況。相手の優位に立つ感覚、そして内面が次の報酬を催促するようになる。ねじ伏せることは目的の外側にあったはずなのに、勝つために議論を選び、勝つために語彙を磨き、勝つために価値観や言葉を操作するようになる。手段が目的を食いはじめる瞬間を、私は自分の内側で観測した。
ほとんどの人はそもそも論戦に興味がないか、興味があっても押し通すのが苦手で、押し返される不快や揉め事の曖昧さを嫌って距離を置く。そもそも関わらない人も多い。大体のひとは次のような分類に当てはまるのではないか?
・興味がない。
・興味はあっても押し通せない。
・意見は言えるがねじ伏せられて面白くない。
・よくわからないまま喧嘩になりうやむやに終わる。
・そういったこと自体が嫌いなので関わらない。
そこを越えて、相手をねじ伏せることが常態化し、快感をベースに居座る人は少ない。
ただ、整合性や論理や倫理を上位に置くという私の前提は、他者からの支持や共感を細らせるかわりに、快感への依存を弱めた。
普段から私は人に囲まれていなくても平気でいられること、理解を急がせないこと、賛同が少数でも構わないこと。これらは私の撤退コストの低さの証明でもあった。
ここからは快感を基準に置かない。SNSとの距離を取り直し、使い方を遅く、静かにする。
これは当面の覚え書きで、方向性はこれから再考する。その起点を忘れないために、いまの時点での認識をここに記しておく。