嘘という構造と、社会的な不条理の起源について

人間は、本質的に嘘をつく能力を持っている。
それは単なる能力というよりも、生存や社会的適応のために進化的に獲得された手段であり、他者との関係性の中で現実を調整する機能でもある。嘘は自己保存のために用いられ、他者を傷つけないためにも用いられ、あるいは利得や支配のためにも行使される。その目的が善であれ悪であれ、事実として人間は意図的に現実をねじ曲げる言語的操作を行う。

社会に存在する多くの矛盾、問題、不条理は、この嘘という構造的な性質の集合から発生している。
個人の小さな嘘、組織の黙認された嘘、制度の裏に隠された前提としての嘘、それらが重なり合い、現実との齟齬を生み出す。現代社会において「制度の限界」「政策の不公平性」「格差」「差別」「情報の非対称性」などと呼ばれるものの多くは、嘘の存在によって強化され、不可視化されている。嘘は単に事実と異なる言説というよりも、自分にとって「都合のよい構図」を温存するための社会的装置に近い。

制度、すなわち法律、道徳、倫理、教育は、そうした人間の欺瞞性を抑制するために構築されてきた。
しかし制度もまた、人間によって設計され、運用されるものである以上、そこに内在するのはあくまで「嘘をつくことを前提とした設計」である。法は人間の悪意を想定してルールを作るが、その法の運用には人間の善意が前提として必要とされる。この構造的な矛盾の中で、制度そのものが新たな不条理や排除を生むことは避けられない。

制度の不完全さは、構造上の問題であって、意志の問題ではない。
つまり、制度が機能不全を起こすとき、それは特定の誰かの失敗ではなく、制度そのものが人間の不完全性、特に「嘘」という性質を内在的に包含しているためである。そしてこの制度の隙間にこぼれ落ちた人々が、現実の苦しみを引き受けることになる。社会的弱者や不可視化された存在は、常に制度の網から漏れる場所に位置づけられ、彼らの痛みは統計にも記録にも現れない。

では、こうした構造の中で、個人にできることは何か。
結論として、一人ひとりが嘘をつくことを減らし、可能な限り正直であろうとする努力を積み重ねるしかない。これは単なる道徳的主張ではなく、社会構造の限界を補完するための具体的な実践である。制度によってすくい上げられない領域を、人間の誠実さが部分的にでも担保していく。それは自分のためではなく、他者のためであり、さらには制度の中では数値化されない誰かの「生」のためである。

言葉は本来、現実を共有し合うための手段である。
しかし嘘が混入した言葉は、現実から目を逸らし、他者の苦しみを不可視化する。そのような言葉が無数に流通する世界では、誰が、何を、どこで、どのように傷ついているのかを把握することすらできない。社会全体の言語空間が虚構化していく過程で、個人が抱える真実は埋もれ、誰にも届かなくなる。だからこそ、言葉を誠実に扱うということは、単に自分の品格を保つためではなく、他者の存在を認識可能にするための行為でもある。

嘘を減らすこと。正直に語ること。制度で補えない他者の痛みに対して応答すること。
これらはすべて、見知らぬ誰かの命の輪郭を守る行為であり、現代における最も具体的な倫理のかたちである。社会を変えるというのは、しばしば大げさなスローガンに聞こえるが、構造の歪みの源泉が「嘘」にあるのだとすれば、その解像度で考える必要がある。社会の正しさは、制度の精度ではなく、そこに生きる人々の誠実さによって左右される。構造を支えるのは、構造外にある人間の選択である。