人間は生まれながらにして何者でもなく、周囲の環境や経験によって徐々に自己を形作っていく。だが、社会においては個々のアイデンティティが必ずしも歓迎されるわけではない。むしろ、一定の枠組みに沿って生きることが求められ、その枠組みの中で自己を定義することが容易である場合、個人が独自のアイデンティティを持つ必要は薄れる。日本のような規律と同調を重視する社会では、この傾向が顕著であり、個人の生き方はあらかじめ定められた道を歩むことで簡略化される。
しかし、社会の枠組みに沿わず、自らのアイデンティティを確立しようとする者は、時に異端視される。特に閉鎖的な社会では、自分たちとは異なる価値観を持つ者に対して強い警戒心が働く。これは学校という小さな社会でも見られ、異質な者が排除される現象は、集団の秩序を維持するための本能的な動きと言える。また、集団の外にいる者に対する排他性は、社会心理学における「内集団バイアス」によって説明される。人間は自らの属する集団を優遇し、外部の集団を敵視する傾向がある。日本のような均質な文化では、この傾向が特に強く現れる。
進化的な視点から見ても、異質な存在に対する警戒心は、生存戦略の一環として形成されてきたと考えられる。人類の歴史において、異なる集団との対立は避けられないものであり、その名残として「異質なものを排除する心理」が根付いている。また、社会の枠組みに適応して生きる人々ほど、自らのアイデンティティが曖昧になりがちであり、異質な存在に対して違和感や敵意を抱きやすくなる。
一方で、極めて厳しい環境にある人々ほど、アイデンティティを強く持つ必要に迫られる。貧困地域や難民など、生存が直接脅かされる環境では、個々のアイデンティティの確立が生存のための精神的支柱となる。自らの存在をはっきりさせなければ、社会の中での立ち位置を見失い、孤立する危険が高まる。そうした状況では、同じ境遇の者同士が強い結束を持ち、アイデンティティが確立された集団であれば、同じ集団でなくとも争うのではなく協力し合う傾向が見られる。
しかし、極度にアイデンティティが脅かされる、あるいは環境が自分自身に対して攻撃的である場合、人の内面は歪みやすくなる。その結果、アイデンティティは異質なイデオロギーへと変質し、他者を排除しようとする思想へと転じることがある。本来、アイデンティティは自己の確立を目的とするが、それが否定され続けると、敵対的な形で自己を守る手段として働くようになる。歴史においても、抑圧された人々が強硬なイデオロギーを掲げ、他者を排除する運動を展開した例は多く見られる。
結局のところ、アイデンティティの確立は個人にとって不可欠であるが、それが社会の中でどのように機能するかは環境による影響を大きく受ける。同質性の高い社会では、個々のアイデンティティの主張が抑圧されやすく、異質なものを排除する力が強まる。一方で、自己の確立が十分でない場合、人は外部の異質な存在に対して過剰に反応し、自らの不安を解消しようとする。それゆえ、社会におけるアイデンティティの在り方を考えるとき、個人の確立だけでなく、社会全体の受容の仕組みについても問われるべきなのかもしれない。