宮台真司論・語る者と生きる者のあいだ

はじめに:思想家を評価するとは何か

この記事は、社会学者・宮台真司という人物をめぐる思想的・倫理的・構造的批評である。ただの人物批判ではない。ここで問われるのは「語ること」と「生きること」の乖離であり、思想が社会に対してどのような責任を持ちうるかという根本的な構造的問題である。宮台は高度な知識と構造批判的知性を持ちながらも、その倫理的実装において重大な自己矛盾を抱えている。本稿ではその矛盾構造を多角的に明示し、思想家としての本質的限界と問題点を明確にする。


1. 宮台的知性の輪郭

1-1. 知性と構造批評の鋭さ

宮台真司は90年代からゼロ年代にかけて、社会構造、制度、メディア、公共性といったテーマに対して鋭い論点を投げかけてきた。とりわけ、”オウム以後”という言葉に代表される構造分析や、ポストモダン社会における共同体の崩壊と快楽主義への転落に関する分析は高く評価されている。

1-2. 引用と権威の演出

彼の著作には多くの知識人の引用が頻出する。これは知的厚みを印象づける一方で、思想的内実としてどれほど統合されているかには疑問が残る。しばしばそれは「ラベル」の役割を果たし、思想的実践よりも「語る資格」の演出になっているように見える。

1-3. 安倍晋三の死と倫理の崩壊

宮台は、安倍晋三が銃撃された直後、SNS上で彼の死を祝福するような言動をとる者たちと共鳴し、彼らと共に行動をしていた。これは、思想家としての最低限の倫理的基準を逸脱しており、「公共性」や「他者の尊厳」を語る立場としては深刻な矛盾である。この行動は、彼がいかに構造的倫理から逸脱し、自らが批判していた「低俗な情動的共同体」と同調しているかの象徴でもある。


2. 相対評価軸への依存

2-1. 評価軸の相対性に基づく思考構造

宮台の発言の根幹には「社会における相対的優劣」という座標が常に前提されている。国民の劣化、知識層の選民性、日本社会の非合理性など、すべてが他との比較において語られる。

2-2. 絶対倫理の不在

そのために、「何が正しいか」よりも「誰よりもよく知っているか」「誰よりも構造を見抜いているか」が重要になり、倫理が実装されることなく、評価のゲームに堕する。

2-3. 優越の快感装置

彼の言動にはしばしば、「自分が他より優れていることを証明する快感」が透けて見える。知識や理論は、社会を照らす道具ではなく、自分を演出する道具に転用されている。これは深層における承認欲求の変形とも言える。


3. 言行の不一致と倫理的破綻

3-1. SNSでのリベラル共同体との共鳴

宮台は「リベラルは欺瞞だ」とたびたび発言している。しかし実際には、SNS上では最も表層的で情動的なリベラル層と共鳴し、共振し、同調している。思想的独立を装いながら、実際にはリベラル共同体の“別の顔色”として機能している。

3-2. 引用と振る舞いの乖離

高い倫理性を語る一方で、実際の行動や発言はそれらの倫理性を体現していない。これらは“ラベルの消費”に留まり、本質的実装には至っていない。

3-3. 「この国を出ればいい」発言と思想の敗走

「国民は劣化している」「いずれこの国を見捨てるときが来る」といった発言は、社会的責任の放棄であり、思想家としての自死とも言える。知識人としての役割を放棄し、優越の確保を目的とする姿勢に転じた瞬間である。


4. 宮台的構造の根源的病理

4-1. 語る思想と属する構造の乖離

彼が語る構造批判は鋭い。しかし、彼自身が属する構造(SNS、大学制度、メディア)との距離が極めて曖昧である。語ることと生きることの乖離が、彼の思想を空洞化させている。

4-2. 共同体的責任の回避

税金によって支えられた制度の中にいながら、「この国を見捨てる」と語ることの倫理的不整合性は明らかである。知識を持つ者が、知によって責任から逃走する構図が露呈している。

4-3. 引用という知のレイヤー依存

知識の引用は、本来、自身の思想の深度を補完するために用いられるべきものである。しかし宮台においては、それがしばしば優越を演出するための装飾に成り下がっており、「思想の厚み」ではなく「知的ラベル」の提示へと変質しているように見える。

この構造は、まさにヴィトンやシュプリームといったブランド品の消費構造と酷似している。若者がブランドアイテムを所有することで自我を補完し、承認を得ようとするように、宮台は知識人の名前や概念を引用することで、自らの知的優位性を補完している。

興味深いのは、宮台自身がこうした若者の精神構造を強く論評してきたという点である。彼は繰り返し、若者の「意味の空洞化」や「消費的アイデンティティの脆弱性」について言及してきた。つまり、自分をラベルで飾ることでしか他者と関われない構造を社会病理として指摘していたのである。

しかし皮肉なことに、その批判構造に自分自身が組み込まれていることに、なぜ彼は無自覚でいられるのか。 あるいは無自覚ではなく、意図的に演出しているのだとすれば、それはまさに彼が批判していた“構造への加担”に他ならない。

この引用行為の問題点は、単なる虚飾ではなく、思想そのものの倫理的根拠を空洞化させるという深刻な問題を孕んでいる。思想が実践に根ざさず、「誰を引用したか」だけで語られるとき、そこにあるのは“語るに足る経験”ではなく“引用するに足る権威”だけである。


5. 私の視座と立場

5-1. 「語る」よりも「引き受ける」を優先する倫理

私は思想において、「語る」ことよりも「引き受ける」ことを重視している。思想とは演説でも装飾でもなく、構造の中で実装されるべきものであり、破綻を引き受ける責任の中にこそ倫理が宿ると考えている。

5-2. 批判の構造的精度を志向する

私の視点は、相対的な優越性の指摘ではなく、思想と倫理、言動と構造、引用と実践の間の乖離を読み解こうとするものである。これは、私自身が「生きられた思想」の立場を志向しているからに他ならない。

5-3. ラベルを必要としない本質性への志向

例えば、私はレヴィナスやヴェイユを尊敬しているが、それは名を借りるためではなく、彼らの“姿勢”に敬意を抱くからである。ラベルを掲げることなく、それが本質的に倫理や構造に作用するかを問うことが、思想において最も重要だと信じている。


結語:思想家とは「語る者」か「生きる者」か

宮台真司のような知識人が批判されるべきなのは、過激な言動そのものではない。それが構造的に、そして倫理的に一貫していない点にある。

私は、「思想とは社会の中でどう生きられるか」という問いを軸に、現代において語られがちな“語る自由”や“知的立場”を超え、「思想家の引き受ける責任」を問い直す必要があると感じている。

私は自分自身を本質的にはリベラルな人間だと認識している。しかし、私自身がリベラルであるという判断と、社会的に“リベラル”と呼ばれる人々と同調することとは全く同義ではない。 むしろ、そのような同調や集団的な感情への依存は、自分自身の判断力や構造的な視野を曖昧にしてしまう危険を孕んでいると強く感じている。だからこそ、私は「共感」や「所属」の安心に逃げるのではなく、理念と構造を分けて考え、それぞれの場面において何が最も倫理的に妥当かを個別に見極める態度を持ち続けたい。

この論考は、宮台真司の言動を糾弾するためのものではなく、私自身の問い、思想はどこまで実装され、どこまで生きられるべきか?に対する一つの応答である。そしてその応答は、他者に届かなくても、たとえ理解されなくとも、私が私自身の倫理を生きることから始まるはずだと、私は信じている。