弱者保護の必要性と疑わしきは罰せずの矛盾。

権力者の行為への反応は、しばしばその人が置かれている権力構造と自己の利益によって左右される。メディアや一部の有識者が性的加害などの問題に対して権力者側に立つ場合、これは権力と知識の関係を深く探求したフーコーの議論を思い起こさせる。権力がどのように知識を形成し、真実を構築するかについての彼の分析は、このような状況において、しばしば権力者を保護する方向での真実の再構築が行われることを示唆している。

倫理的な相対主義と普遍主義の対立は、この問題の理解をさらに複雑にする。一方で、疑わしきは罰せずの原則が基本的な倫理として機能しているが、弱者保護の必要性がその原則を覆す場合がある。エスプタイン事件のような極端な事例では、社会的な弱者への保護が優先され、疑わしい状態であっても社会的圧力や制裁が加えられることが許容される。

しかし、性的加害に対する報道が行われた際、一部の有識者や知識人が被害者よりも加害者の立場に立つことを選択する理由は、権力構造内での自己の位置づけや利益が深く関わっているからである。彼らのこのような立場は、疑わしきは罰せずの原則を掲げつつも、実際には権力者の行為を容認し、弱者の保護を二の次にするという矛盾を生む。

この矛盾は、フィリピンのドゥテルテ大統領による犯罪組織への厳しい対応と対照的である。彼の行動は、疑わしきは罰せずの原則から逸脱し、弱者保護の名のもとに強権的な手段を採用している。同じ原則が異なる場面で異なる解釈と適用を見ることは、個人の価値観、文化的背景、そして権力構造の中でのポジションが、これらの原則の解釈と適用に大きな影響を与えることを示している。

このように、メディアが伝える性的加害の報道に対する反応は、単に疑わしきは罰せずの論理に基づくのではなく、権力、倫理、個人の価値観が複雑に絡み合う問題である。権力者による不正行為が社会的に認知され、適切な制裁が加えられるべきであることは明らかであるが、その過程で見られる矛盾と論理のずれは、私たちが直面する倫理的ジレンマを深く反映している。