悲しみに共感しながら、差別を日常化する人たちへ

(更新: 2026.04.13)

今回のニュースを見て、最初に浮かんだのは「人は変わる」という平凡な言葉ではなかった。むしろ逆で、人は変わるという説明では足りない、という感覚だった。

そこにあったのは、もともと愛情を持っていたはずの二人の関係が、時間と介護と疲弊の蓄積の中で、少しずつ別のものへ変質していく過程だった。最初から冷たかったわけでも、最初から壊れていたわけでもない。けれど人間は、善意や思い出だけで持続できるほど単純にはできていない。余裕が削られ、孤立が深まり、毎日の生活が静かに人を追い詰めていくとき、昨日まで踏みとどまれていたものが、今日は踏みとどまれなくなる。その境目は、外から見るほど明快ではないのだと思う。

私はこういう話を、単なる他人事として読むことができない。

私の母は、私が生まれる前から統合失調症を患っていた。最初から病状が強かったわけではないが、徐々にそれは重くなり、入退院を繰り返し、私が小学生の頃には、母の中で見えている世界と、私たちが生きている現実が大きくずれていった。母には私が宇宙人に見えた時期もあった。夜になると、誰かが自分を殺しに来ると言って包丁を持ち出し、外へ出ようとする。それを兄と二人で必死に止めた。家の中で罵声が飛び、恐怖が日常になり、父は浮気をし、私が中学生になる頃には離婚した。

今振り返っても、その頃の自分が何を感じていたかは、きれいな言葉ではあまり思い出せない。ただ、苦しかったという記憶だけが残っている。

けれど私は、その先も見ている。統合失調症はずっと同じ形で続くわけではなく、年齢を重ねるにつれて、妄想の量そのものが減ることもあれば、その現れ方や内容が変わっていくこともあり、攻撃性も少しずつ和らいでいくことがある。母もそうだった。私や兄が働くようになり、金の不安も少し薄れ、生活の破綻がいくつか塞がっていくと、不思議なくらい家の中に平穏な時間が戻ってきた。あれだけ地獄のようだった日々が、、同じ家族としてまた呼吸できる場所に変わっていった。不完全ではあったけれど、そこにはたしかに愛情がよみがえっていた。

この体験があるから、私は人を見るときに、その人の中に最初から固定されていた性質よりも、その人の背後で何が起きていたのかを先に考えるようになった。何を背負わされ、何に削られ、どこで壊れ、どこで踏みとどまれなくなったのか。そこを見ずに人を理解したつもりになることに、私はどうしても抵抗がある。

もちろん、だから何をしても仕方ないと言いたいわけではない。暴力が消えるわけでもないし、責任が消えるわけでもない。ただ、行為だけを切り出して人間を決める視線は、現実をかなり雑に扱ってしまう。人は理念だけで動くわけではない。疲労、恐怖、孤立、貧困、関係の摩耗、終わりの見えなさ。そういうものが重なると、人は自分でも引き受けたくない場所まで押し出される。そこを見ないまま人格や属性に回収すると、原因は理解されたことにならず、ただ処理されるだけになる。

そして私は、この感覚が排外主義を考えるときにもそのままつながっていると思っている。

最近は、中国人がどうだ、クルド人がどうだ、日本人は優秀だ、あいつらは危ない、という雑な言葉があまりに簡単に流通する。そこで起きているのは理解ではなく、ラベルによる処理だ。本来ラベルは複雑な現実を一時的に整理するための道具にすぎないのに、今は中身を見る前に結論を出すための武器になりやすい。そのほうが速く、安く、気分よく世界を整理できるからだ。けれどその速さは、たいてい理解の浅さと引き換えになっている。ラベルが理解の補助ではなく、相手を無効化する道具に変わるとき、私たちは内容を読む前に分類し、分類した瞬間に結論を出してしまう。

ただ、ここで少し慎重に見たほうがいいことがある。戦争や極端な貧困のような状況があると、人は「誰にでも見えるから理解できる」のではない。そういう極限が社会的に広く起きると、苦しみや圧力を理解するための共通の土壌が生まれやすい、ということだと思う。同じ種類の恐怖や不安や喪失が、強度の差はあっても広く共有されるから、何が人を変えてしまうのかを想像する回路がつながりやすくなる。

逆に言えば、その土壌がない場所では、目の前に見えているはずのものすら、見えないことがある。ある環境で育った人にとっては切実で自明なものが、別の環境で生きてきた人にはまったく現実として立ち上がらない。だから理解の差は、知能や善意の差というより、まず土壌の差として現れるのだと思う。私はそこをかなり重要だと感じている。理解できないことそのものより、自分にはその土壌がないかもしれないという想像力を失ったとき、人は他者を属性で処理しやすくなるからだ。

だから私は、誰かの危うい言葉や行為に触れたとき、その人についているラベルよりも、その前後に何があったのかを知りたいと思う。そうしなければ、人は人を理解できないからだ。理解を抜いた断罪は、たいてい次の断罪を生むだけで終わる。

今回のようなニュースに触れて、その人生の悲しみに胸を痛めているのに、その感情の先で、別の誰かを国籍や属性で見下しているのだとしたら、それは差別を否定しているのではなく、差別する自画像を、綺麗な感情で誤魔化しいるだけだろう。