批判するだけの人には、誰も付いていかないのか?

タイトルとは別になるが、先日、糸井重里の短い言葉を見て、妙に引っかかった。善悪でも正直さでもなく、「親しみ、存在感、表現力」みたいな要素が揃うと、人は相手にされ、影響が生まれる。正しいことが勝つのではなく、届く形が勝つ。そこでふと、今回の選挙で多くの国民が自民党を選んだ空気も、まさにこの一文に圧縮されている気がした。

先日の糸井重里氏のポスト

いま起きていることを、善悪や好き嫌いの話に落とさずに、構造として眺めてみる。

「親しみ、存在感、表現力」が揃えば勝つ、という感覚は、道徳の話ではなく手段の話だ。正直か嘘つきか、正しいか間違いか、その判定以前に、まず届くかどうかが入口になっている。入口を通れないものは、内容がどれだけ筋が通っていても、公共空間では存在しないのと同じ扱いになる。政治も同じで、政策の中身より先に、受け取られる雰囲気が勝敗を決める比重が増えている。

ここで重要なのは、正当性と機能性が分離したことだ。正当性を把握できたとしても、それが現実に機能するかどうかは別問題である。批判も同じで、手段が十分に出揃っていない局面では、批判は一定の効力を持ちうる。しかし手段が乱立すると、批判は正当性を担保する議論としてではなく、効率の衝突の中の一手段に回収される。つまり批判は、正しいかどうか以前に、勝てるかどうかの競技へと投げ込まれる。

SNSとアルゴリズムは、この競技化を加速させた。人間の学びが減ったとか、能力が落ちたとか、そういう話ではない。学問や学びは、本来ゆっくりと確かめ、整合性を積み上げる営みだ。しかし同じ土俵に上がった瞬間、その時間のかかる手続きは、到達と残存を最適化する手段に対して、構造的に不利になる。学びが価値を失ったのではなく、評価軸が変わったことで機能しにくくなった。

その評価軸の変化が、ラベルをレッテルへと変質させる。ラベルは本来、複雑な現実を一時的に圧縮するための道具だ。ところが競技化した環境では、ラベルは理解の補助ではなく、相手を無効化する武器になる。内容を読む前に分類し、分類した瞬間に結論を出す。こうして事実を伝えるより、レッテルを貼る方が速く、安く、効果的になる。

たとえば、参政党や日本保守党は「危うい」「極端」「陰謀論的」といったレッテルで処理されやすい。ここまでは分かりやすい。だが今回、もう一つ分かりやすく可視化されたのは、立憲民主党や公明党も、同じようにラベルを貼られる側になっていたという事実だ。あの二党は「既得権益」「偽善」「売国」「国民の敵」など、細部の検討以前に、そういった象徴として処理されていた。つまり、ここで起きているのは、正しい批判が勝った、あるいは負けた、という話ではない。レッテルが届いた、あるいは届かなかった、という別種の競技であり、手段の効率化だ。

そして厄介なのは、このレッテル化が、特定の陣営だけの専売特許ではないことだ。参政党や保守党を批判していた側も、立憲や公明を批判していた側も、空気が悪くなると結局は同じ道具を使い始める。相手を説得するためではなく、相手を扱いやすい像に落として、自分の側の安心と結束を守るためにラベルを貼る。こうなると、批判の真偽よりも、ラベルの効率が先に走る。「批判ばかりする人には誰もついていかない」という言葉が妙に説得力を帯びて拡散し始めるのも、批判の内容を検討した結果ではない。批判という営みを、空気が悪い側として処理するための手段として便利だからだ。

この土俵では、手段の選択が価値判断を先取りする。何を言うかより、どう言うかが先に決まり、どう言うかが決まった瞬間に、言える内容も制約される。短く、強く、断定的で、敵味方が明瞭で、感情が乗り、共有しやすい形だけが増殖し、そうでない形は静かに消える。だから本質は軽視されたのではなく、常に後回しにされる。後回しにされ続けた本質は、やがて存在しないものとして扱われる。

私たちは結局、目の前でこの理不尽な構造を眺めているつもりでいながら、それを見過ごす事で批判とレッテルを回している側としても機能し、この仕組みを正常運転させている。