大人の社会では排外的な言葉が繰り返される一方で、子どもたちの生活空間には、多様な言葉と背景をもつ友だちがすでに自然に溶け込んでいる。そこで積み重ねられる日常は、相手を「理解する/共に暮らす」感覚を、理念としてではなく身体の深いところに沈殿させていく。実践が感受性を形づくり、その感受性がやがて理念を更新する。違いを境界ではなく風景として受けとめる態度は、そうして静かに育つ。
未来は断言できない。ただ、こうした日常を生きてきた子どもたちが大人になるとき、外国人と共にあることを前提として語る姿は不自然ではない。排除や恐怖ではなく、共生と理解を軸に据える感覚が「普通のこと」として立ち上がるだろう。それは、大人社会で主張されている価値観と向き合い、時にそれを反転させる力を持つ。
ここで思い出しておきたい。かつて私たちは、前の世代の凝り固まった価値観を「老害」と呼んで切り捨てた。あの語は単なる罵倒ではなく、世代間の断絶を言い表すために実際に使われた、生々しい言葉だった。言葉は順番を守って返ってくる。いま声高に排外を語る私たちの一部は、次の世代から同じ語で名指しされる位置へと自ら歩いている。
それはなぜか?いまの子どもたちにとって、外国人は排除すべき対象ではないからだ。教室や遊び場で共に育った相手が、ある日「脅威」として語られるとき、その言説に彼らは共感できない。共感できない言説は、未来の常識から見れば、時代を塞ぐものとして批判される。その帰結が「老害」という名指しだ。
では、私たちはどう責任を引き受けるのか。まず、自分の言葉に自己適用の基準を置くことだ。いま口にする言葉が、将来の自分にも適用されても耐えられるか。この最低線を越えない発言は、いずれ確実に自分に返ってくる。言葉が持つ反射の構造を理解し、その帰結に責任を持てるかどうか。私たちは更新される風景の側に立つか、それとも自らを時代の足かせとして提出するか。選ぶのは、いまこの場で発する一語一語である。