日本を守りたいといいながら、日本を破壊する人たち

深夜に灯るコンビニの看板も、安価で手早い外食も、インフラを支える現場の技能も、少子高齢化が進む日本社会では、その舞台裏で多くの在留外国人労働者が欠かせない歯車となっている。それでも景気が陰ると、「外国人は邪魔だ」と排斥を唱える声が急に大きくなる。この“享受と拒絶”の二枚舌こそ、現状の最大の矛盾にほかならない。

治安悪化への不安が排斥論の主要な根拠だが、統計を精査すると出身国だけでリスクを断定できる決定的根拠は乏しい。それでも私自身の調査と体感では、外国人の犯罪に接する機会が日本人より相対的に多く、犯罪率も高いのではないかという「肌感覚」は拭いきれない。可視的な文化差異やコミュニケーション摩擦が、数字以上に質的な不安を増幅していることは否定できない。だからといって、彼らの労働がもたらす便益を無視し、単純な排斥で片づけるわけにはいかない。

むしろここで問われるのは「文化的同質性の維持こそ公共善」だと考える。共通の価値観と言語が希薄になれば公共規範は揺らぐ。この警告は、移民を短期的な労働対策としてしか見ない楽観論を冷却し、長期的な制度疲労のリスクを示唆する重要な論点である。

排外論を支持する立場に立つのであれば、理論的帰結として次の二点について自らも関与する姿勢が求められると考えられる。特定の場合を除き、第一に、深夜勤務や肉体労働、低賃金部門など、日本社会を支える仕事を率先して担う覚悟を示すこと。第二に、少なくとも二人以上の子どもを育てるなど、人口減少の緩和に資する取り組みに寄与すること。これらに取り組まないまま排斥だけを唱えるのは、外国人労働力から生じる便益を享受する一方で、その代償を負担しない姿勢となりかねず、合理性もなくも説得力を欠くし、そのような判断自体が道徳的・倫理的に正当化できるとは言い難い。そもそも、第一の要件については、実際には多くの在留外国人がその役割を担ってもらっていることを忘れてはならない。

つまり選択肢は「全面排除」か「無制限受入れ」かの二分法ではない。秩序ある受入れと自国人口再生産を両輪で進める制度設計が不可欠だ。企業は得られる利益に比例して社会統合コストを明示的に負担し、地域コミュニティ形成や日本語教育を支援するべきだ。同時に国家は育児支援や働き方改革を徹底し、日本人の出生率回復策を実効化して海外労働力への依存を恒常化させない道筋を示さねばならない。

個人レベルでも責務は残る。私は国籍を問わず公共空間で規範逸脱を見かければ必ず声をかける。小さな注意喚起の積み重ねこそ社会秩序を支える最前線であり、排外的言説よりも具体的で建設的だ。外国人の便益を享受しながら統合コストの負担を拒む態度は、自己中心的線引きに終始し、社会全体の持続性を損なう。

結局、移民問題が映し出すのは「他者をどう統治するか」ではなく、「私たち自身がいかに公共を引き受けるか」という問いである。便益とリスクの非対称性を直視し、統合コストを明示的に配分し、市民的責務を行動として果たす。これ以外に、揺れ動く労働市場と多文化化する社会を持続的に維持する道はない。