是々非々という免罪符・前提を語らぬ者の逃げ道

1. 「是々非々」という言葉の誤用とその構造

「是々非々」という言葉は、本来は個々の物事に対して是と非を分け、立場にとらわれず判断する態度を指す。しかし現代においてこの語が使われる場面の多くは、実質的に一方の立場を支持しながら、それを「中立的判断」として装飾するための手段となっている。つまり、発言の内容はすでに偏っているにもかかわらず、その語によって“公平で理性的な態度”が演出される。このとき、「是々非々」は意味を担う言葉ではなく、立場を隠蔽するためのレトリックに堕している。

2. 判断における前提の不可避性と「公正」の仮面

いかなる判断にも前提が存在する。個人の経験、社会的背景、倫理観、信頼する情報源など、意識的であれ無意識的であれ、それらの影響なしに判断することは不可能である。したがって、「是々非々」の判断も本質的には前提を伴っているはずだ。しかし多くの場合、その前提は明示されず、「公正」という名のもとに判断のみが提示される。これは、言語による責任の回避であり、判断の可視性を曖昧にする。公正とは、前提を隠すことで成立するのではなく、むしろ前提を開示したうえで他者と共有可能な地平をつくることで初めて成立する。

3. 言葉の責任と「是々非々」が許される条件

「是々非々」という言葉を使うこと自体が問題なのではない。それを使うならば、自らの判断が何に依拠しているのか、どのような観点から是と非を分けたのか、具体的に説明することが必要である。例えば「~の前提に立って是々非々で判断したい」といった語り方は、判断の出所を明らかにする点で誠実だろう。

さらに言えば、「是々非々です」と言うことは、「世間的な価値基準には依存せず、自分自身の判断で是非を見ている」という立場を取るということでもある。であるならば、その“自分の価値基準”を提示する責任が同時に発生する。既存の社会的定義に与せず判断するというのなら、その判断の拠って立つ基盤を明示する義務があるはずだ。判断の根拠を語らずに「是々非々」とだけ言い張るのは、実質的には“基準なき主張”を理性的な判断として偽装しているにすぎない。

そして結局のところ、この言葉はしばしば、自己の好き嫌いによる判断を合理化し、他者からの批判を免れるための装置として機能してしまっている。それは公正の仮面を被った、極めて私的な選好の表明に他ならない。