死に近づく引力と、愛の空白

幼いころに親から十分な愛情を受け取れなかった人は、大人になって心が折れそうな場面に直面すると、生きるよりも死へ向かう引力に強く引き寄せられやすい。そこへ極端な放任やネグレクトが重なれば、他者に頼る方法を学ばないまま育つが、たとえ放任やネグレクトがあっても基盤としての愛情が残っていれば、その引力はある程度弱まる。愛情の欠如と放任が同時に重なる場合、感情を打ち明ける発想が薄く、安心の記憶もないまま孤立し、限界点で誰にも声をかけられずに絶望へ沈み込むリスクが跳ね上がる。

同じく愛情が薄いまま過保護だけが強い家庭で育つと問題は別の角度から深刻化する。そこで子どもは「期待どおりでなければ受け入れられない」という条件付きの価値づけを刷り込まれ、存在そのものは肯定されない。親のコントロールを満たす瞬間だけに価値が与えられるため、他者からの承認が自己を支える唯一の柱になる。承認が断たれた瞬間、愛されなかった記憶と「私は無価値だ」という刷り込みが一斉に再起動し、依存先を奪われた感覚も重なって、死への引力が極端に増幅する。表面的には自立して見えることも多く、周囲には危険が見えにくい。

愛情がありつつ過保護なだけなら事情は違う。無条件で大切にされているという土台が残るため、承認への渇望は過剰に肥大しにくく、自己認識は比較的安定しやすい。

これらの現象は、ボウルビィの愛着理論における不安定愛着、エリクソンの基本的信頼の欠如、条件付き肯定、外的自己評価への依存、ナルシシズム的傷つきやすさ、トラウマ再演などの概念と重なる。背景には存在の消失感と実存的不安が常に潜む。サルトルの「他者の眼差しに依存する存在」やキルケゴールの「自己であることを欲しない絶望」は、この構造を哲学の側から言い換えただけに過ぎない。

そしてここからわかるのは、どんな歪みや欠落が積み重なっていても、そこに無条件の愛情が注がれれば、自己の芯は修復を始める。他者を頼る記憶が芽生え、条件付きの価値づけはゆっくりと溶け、死へ傾く重力は弱まっていく。結局のところ、生き抜く力を根底で支えるのは愛そのものだ。