死刑とは「矛盾を矛盾で解決する」制度

1. 死刑とは「矛盾を矛盾で解決する」制度

死刑賛成・死刑反対という二項対立では語りきれない複雑さがある。
犯罪によって失われた命は戻らない以上、「加害者の命を奪う」ことで矛盾を終わらせるのは「制度上の解決」にすぎず、本質的には「矛盾に矛盾で応じる」行為にほかならない。
したがって、死刑を「正義」や「善悪の裁き」として単純に語ること自体が、矛盾を見ないふりをしている可能性が高い。

2. 社会全体の責任と被害者の優先

重大犯罪が起きた時点で、社会はすでに失敗している。
加害者を生む背景には、貧困・差別・家族環境などの社会構造がある。つまり私たちもその「悪」を生み出した要因から切り離されていない。
それでも被害者の存在と痛みを最優先すべきだ。犯罪が発生すれば、まずは被害者・遺族の感情を蔑ろにしてはならない。
しかし多くの場合、死刑を「正義」だと叫ぶ人たちは被害者や遺族へ具体的な支援を行わず、「加害者を殺せ」で終わりがちだ。
死刑を執行するなら、社会は「私たちも罪を犯した」と認める必要がある。共同体は被害者を守れず、加害者を生んでしまった失敗を正面から引き受けねばならない。

3. 死刑反対論への疑問・「被害者救済」まで語られているか

死刑反対派の議論は「国家による暴力の否定」「誤判リスク」「更生の可能性」など、加害者や権力の側面に集中しがちだ。
一方、被害者への長期的・具体的支援を社会がどう担うかという議論は不足している。
「人を殺すな」と言うだけでは、遺族の苦しみや生活上の困難は残る。
もし死刑を否定するなら、被害者と遺族を社会全体が終生支える責任があるはずだが、その具体像は示されにくい。
こうして「加害者の命を救う」主張はあっても、「被害者をどう支えるか」が薄いままでは「言葉だけではないか」という疑念を招く。

4. 「被害者遺族が加害者を殺した場合」の法的扱いと司法の自己矛盾

遺族が加害者を殺せば、法律上は「私人による私刑」として殺人罪で裁かれる。
だが過去の判例では強い情状酌量が認められ、「死刑」「無期懲役」は回避され、懲役8~12年程度が多い。
司法は被害者感情を無視できず情状を汲む一方、法の外部の感情としてしか処理できず、一貫性を欠く。
結果として「制度としての死刑」を存続させつつ、「被害者の復讐」には軽い刑を与えるという矛盾が生じている。

5. 「死刑制度の矛盾を最初から受け入れる」という結論の誠実さ

現在の司法と社会は「死刑制度はあるが、なるべく使いたくない」という曖昧さに沈んでいる。
加害者を処刑することを「正義」と断言せず、かといって本気で廃止もしない。
だからこそ、
「最初から『死刑という矛盾を引き受ける社会』と宣言せよ」という主張が成り立つ。
これは死刑を称揚するのではなく、逃れられない矛盾を制度として正直に受け止める誠実さを指す。
この立場は賛成派の激情とも反対派の理想とも噛み合いにくく、孤独になりやすいが、矛盾を引き受ける姿勢こそ最も倫理的である。

6. 全体を貫く倫理観・矛盾から逃げない責任

加害者と被害者/死刑の制度と社会の責任/理想と現実、どの軸に立っても、「命を奪う」というパラドックスから完全には逃れられない。

  • 死刑を支持するなら、共同体の一部を切り離す決断であり、加害者を生んだ責任を負う覚悟が要る。
  • 死刑を反対するなら、「命を奪わない」という倫理を掲げつつ、遺族を支える制度と責任を担わねばならない。

どの立場でも矛盾は残る。大切なのは、矛盾を直視し、行動し続ける責任から逃げないことだ。


結び・矛盾を引き受ける覚悟

死刑制度を肯定するだけでも、否定するだけでも、被害者の救済や社会構造の問題は解けない。
「死刑反対」だけでは遺族の経済的・精神的負担から社会が逃げる危険がある。
「死刑賛成」だけでは加害者を生む構造の責任から目を逸らす恐れがある。
ゆえに「採るにせよ、採らないにせよ、社会の在り方を根本から問い直す」視点が要る。
矛盾を抱えた司法と建前の正義を超え、被害者の痛み・加害者の背景・社会の未成熟を見据え、私たち全員が矛盾を引き受ける覚悟を持てるか。そこにこそ、真の問いがある。