社会が謝罪を叩く構造は、誠実そのものを自壊させる
2022年4月に起きた知床遊覧船沈没事故の謝罪会見で、決して良いとは言えない形だけの謝罪をした会社代表に対し、社会は誹謗中傷を続けた。その反応は理解できなくはない。だが、もし社会が「謝罪したこと」自体を評価しないなら、加害者にとっては「謝罪しないほうが得だ」という判断が合理的になり、やがて誰もがそう振る舞うようになるだろうと感じた。
実際、現在の兵庫県知事の公益通報者保護法違反や静岡・伊東市長の学歴詐称といった事例では、当事者たちはまさにその道を選んだ。謝罪も説明も曖昧にし、批判の嵐をやり過ごしている。
この姿勢は権力者に限らない。いまやSNSの日常的なやりとりにまで波及している。誰かが謝れば、そこを突いて徹底的に叩く。だからこそ、誰も謝らなくなる。「謝ったら負け」「認めたら終わり」という空気が蔓延している。
そろそろ立ち止まって考えるべきだ。謝罪することの意味。たとえ納得できない内容でも、「謝罪という行為」自体を評価する責任が社会にあるのではないか。受け入れるかどうかは別として、無視していいわけじゃない。
「誠実さがないから評価しない」という態度が広がれば、いずれ謝罪そのものが無意味になる。謝れば叩かれ、黙っていれば得をする構造が定着すれば、人はますます謝らず、社会から誠実さが消えていく。
謝罪が価値を失った社会では、誰も謝らなくなる。誠実さを守りたいなら、たとえそれが形だけの謝罪であったとしても、私たちはその行為に一定の価値を認め、評価するという態度を持つことが必要になる。