人はつねに真偽だけで動いているわけではない。恋愛でも政治でも、事実を直視すればよいと頭ではわかっていても、あえて見ないという選択が続くことがある。外からは不整合に見えるが、当人の中では別の整合性がきちんと働いている。人は同時にいくつもの報酬を勘定に入れる。所属の維持、感情の安定、自己物語の一貫性、短期の平穏、関係や地位の利得。事実の精度だけを基準に置くと矛盾になる行動も、これらの軸を含めれば十分に合理化される。
直視には便益と痛みがある。便益は判断の質が上がることや将来の被害を避けられることだが、痛みはすぐにやってくる。孤立の不安、恥や怒りの感情、過去の自分を否定するつらさ、関係を壊すリスク、情報を集め直す手間。目の前の痛みが大きく、将来の得が遠いほど、人は短期に重みを置き、見て見ぬふりを選ぶ。これは弱さとは少し違う。短期に重みを置く人ほど、否認の方が合目的になる。
自分の選択と目の前の証拠がぶつかったとき、人は痛みを減らすために証拠の重さを下げたり、別の解釈を探したりする。自分や仲間にとって不都合な事実ほど、信用しにくくなる。手間のかかる検討は後回しにして、信頼する人の言葉や、都合の良い情報源に寄りかかる。すでに多くを注いだ関係や立場は、簡単には捨てられない。表向きの発言が仲間への合図になる場面では、正確さよりも一貫した表明が価値を持つ。自分で自分を少しだけだますことが、他者に対する説得や体面の維持を楽にすることもある。結果として、皆が本心とは違う表明を続け、集団全体がそれを規範だと信じてしまうことも珍しくない。
恋愛なら、裏切りの兆しを認めることは、別離や生活の崩れ、子どもの環境の変化とつながる。正しさより、今夜の静けさや明日の暮らしの方が重くなる瞬間がある。政治なら、事実の受け入れは仲間からの排除や仕事の機会の喪失につながるかもしれない。そこで守られるのは単なる頑固さではなく、関係の通貨、面子、これまで積んだ物語の連続性だ。職場でも似た構図が見える。誤りの認定は人事評価や信用に直結しやすいから、誤りの可能性そのものを見ない方が損失を抑えられると判断される。
この種の合理性は、何を守るかの序列から生まれる。事実の整合性より、所属の整合性を上に置く人もいる。心の波を立てないことを最優先にする人もいる。自分の利益や物語が壊れないこと、間違っていても、その義理や信義を壊さないことを根に置く人もいる。どれも倫理の善悪を断じるための話ではない。彼らが生きるうえで、複数の価値を同時に守ろうとする、その順番の違いが行動を決めているというだけだ。
では行動が変わるとき、何が必要なのか?それは多くの場合、退出の費用が下がり、代わりに得られる報酬が早く、はっきりと見えるようになったときに変化が始まる。居場所を失わずに済む別の場があり、そこでの役割が用意され、歓迎の合図が届き、表立った謝罪や劇的な転向を求められない。過去は無駄ではなく学びだったと語り直せる台本がある。こうした条件が揃うと、人は「正しさ」に向かうのではなく、「損得の帳尻が合う」方向へ静かに移動する。説得の言葉より、環境の設計の方がよく効く理由はここにある。
結局のところ、「騙されているのに見ない」人々がいるのは、彼らが別の秤でつり合いを取っているからだ。こちらの秤だけで不合理を断じても、彼らの秤は動かない。もし変化を願うなら、相手の秤の目盛りを理解し、その上で、痛みを減らし、面子を守り、次の一歩に見合う報酬を早く渡すことだ。正しさを上から置くのではなく、正しさが自然に選ばれるように地面をならす。そのとき初めて、事実の方へと傾く余白が生まれる。