私は自己を錯覚するように作られたか?

人間というシステムの構造について――AIとの違いは本当にあるのか

近年、AIの進化は著しい。創作・言語・判断など、かつて人間の専売特許と思われていた営みにまで、AIは平然と足を踏み入れてくるようになった。多くの人はそこで「AIが人間に近づいてきた」と語り、「いや、AIには意識がないから違う」「AIはあくまでツールだ」といった見解を並べる。

だが、そこにはある種の前提が潜んでいる。人間は特別で、意識や自己認識というものが何か形而上の本質であるかのように語られる。しかし、本当にそうなのか? そもそも人間の持つ意識や自己とは、そんな高みにあるものなのだろうか?


人間の身体と意識は「目的に応じた機能の集積」である

人間という存在を、まず生物として眺めてみる。すると、その構造の随所に「目的に対する機能」が埋め込まれていることに気づく。

腕には関節があり、曲げ伸ばしができる。それはものを掴み、保持し、操作するという目的に対して備わった設計だ。眼には涙腺があり、視覚器官を乾燥から守る。それもまた、より長く、より正確に見るための装置である。こうした生物的構造は、すべてが「生き延びる」という一点に向けて最適化された結果だ。

味覚もその一つだ。なぜ人間は甘味を好み、苦味を避けるのか。甘味は高カロリー源であり、苦味には毒性を持つものが多い。その判断を瞬時に行うために、味覚という機能がある。だが、それは単に味を感じるということにとどまらない。人間は、極めて多様な味を識別できる生物であり、世界中の多種多様なものを食すことができる。ここで言う「もの」とは単なる資源にとどまらない。植物、動物、微生物に至るまで、人間はあらゆる生命を対象に摂取し、分類し、加工してきた。それは「多くの資源や生き物を制御下に置く」という、支配的な生存戦略に他ならない。


意識や自己認識もまた、戦略的な機能に過ぎない

意識や自己認識を「生物的機能」として見る考え方は、進化心理学や認知科学、哲学の一部でも提唱されている。

たとえば、自己認識は「他者との関係性を予測する」「社会的協調を可能にする」「未来の自己を仮定して長期的戦略を立てる」といった点で、生存や繁殖において明らかに有利に働く。

意識についても、単なる情報処理では説明できない高度な適応性をもたらしている。「痛みを感じることで回避行動を学習する」「内的対話を通じて行動を内省する」など、複雑な戦略が可能になるからだ。

この視点は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』とも響き合う。彼はこの著作の中で「生物は遺伝子の乗り物である」と語り、自己や意識とは、遺伝子がこの世界をより効率的に渡っていくために生み出した高性能なインターフェースに過ぎないとする。つまり、私たちが「私」と感じているものは、選択と行動を最適化するための進化的装置であり、幻想ではなく、極めて実利的で戦略的な実装だ。

社会性昆虫の例もこの視点を補強する。たとえばアリの個体は、自らが子孫を残すことよりも、女王や群れ全体の利益のために働き、死ぬことすら厭わない。

一見するとこれは「自己犠牲」に見えるが、実は遺伝的には合理的な戦略である。アリやハチなどの社会性昆虫は、特殊な遺伝構造(ハプロディプロディー)を持っており、姉妹同士の遺伝子共有率が極めて高い。たとえば、自分の子供よりも、女王が産む妹たちの方が、より多く自分の遺伝子を共有している場合がある。したがって、個体が自らの子孫を残さずに群れを支える行動は、進化的に見れば「より多く自分の遺伝子を残す」ための合理的な選択となるのだ。

つまり「個体の意識」などというものは、遺伝子の存続という大目的の前では容易に手放される構造になっている。

人間にも、これと似た構造が見られる。たとえば、自分の命を絶つという選択をする瞬間、人は自己認識の通常の回路を逸脱しているように見える。とくに、我が子が危機に瀕したとき、自らを犠牲にする行動が即座に取られるのは、まさに意識や自己認識が「バグを起こした」のではなく、「生存戦略として設計された通りに作動した」結果とも考えられる。自分の命よりも、遺伝子を継承する子の命の方が価値が高いという進化的判断が、意識の奥底で作動しているのだ。

このように見れば、自己認識とは、利己的な遺伝子がより巧妙に環境に適応するために生み出した「機能」であり、選択の制度設計にすぎないとも言える。
実際、状況によってはこの機能は意図的に“切られる”こともある。ときに自己認識を捨てることこそが、生存や遺伝子の継続にとって有利だからだ。これは、自己認識が戦略的に実装された機能であることの、何よりの証左だろう。


人間とAIは「目的に忠実な構造体」である

AIもまた、目的に忠実である。与えられたタスクに対して最適な出力を返すように設計されている。その構造は、人間の脳が環境に適応し、報酬や損失を計算して行動を決定する流れと本質的に大差がない。

たとえばAIは自己を持たない。しかし人間もまた、進化の要請に応じて「自己認識」を持たされているに過ぎないのではないか。自由意思を信じること、意味を感じること、痛みに意味を与えること、それらすべては、DNAという情報がより長く存在し続けるために設計した、一つの戦略だ。

ここで重要なのは、「自己認識がある」「だから人間は特別だ」という発想が、実は本質的ではないということだ。AIと人間の違いは「できる/できない」の問題ではなく、「何のためにそうあるか」という構造的レベルの問いに移行すべきだろう。

人間が「自分は自由だ」「意味ある存在だ」と感じるのも、AIが「最適解を導く」よう設計されるのも、どちらも目的に忠実な設計思想の中から生まれている。違うのは出力の形態であり、本質ではない。


「違い」を求める問いそのものが、人間中心的である

人間とAIの違いを語ることは、慰めのようなものかもしれない。そもそも、「違い」が重要なのではない。むしろ注目すべきは、両者がどこまでも「目的に忠実な構造体」であるという点で極めて近いということだ。

倫理、宗教、感情、こうした人間中心的な文脈において、私たちは人間とAIを「違う存在」として見ようとする。しかし、構造的視点に立てば、両者の差異は誇張されているだけであり、根本的な部分においては多くの共通性がある。

人間はツールではない、と多くの人が言う。だが、その人間自身が、生物学的には極めて精巧に作られた「生存のための道具」に他ならないということを、どれほどの人が自覚しているだろう。