「日本人」という虚構的アイデンティティ

権利は責務と不可分だという民主社会の原則は、自明に見えて案外脆い。近年、「日本人である」という肩書だけを掲げ、そこに即効性の誇りを求める振る舞いが目立つ。だがアイデンティティとは、殻ではなく、他者や未来への応答の中で育つ器であり、本来は負託を引き受ける責任とともに形づくられるものだ。たとえば、父親や母親という立場も、子どもに対する権利の主張ではなく、責任の引き受けによって初めてその意味が確立する。応答なき誇示は、空洞を響かせるだけの虚勢に過ぎない。

戦後の高度成長がもたらした「働けば豊かになる」という共有目標はとうに終わり、国家を支える物語は更新されないまま、個々の欲望だけが精緻に可視化された。結果として、役割を介した相互扶助の回路は細り、権利の即時充足を謳う市場の声が、責任の静かな重みを覆い隠した。親や教師といった身近な立場でも同じ構図が映る。「親だから何をしても許される」のではなく、「親だからこそ何を引き受けるか」が問われるはずなのに、与える側の視点が抜け落ちると、立場は権限へと歪みやすい。

社会的な役割が尊厳を生むのは、行為を通じてのみであって、血統や肩書の短絡的な優位とは異質の価値だ。空虚さを埋め合わせる装置としてのSNSは、即席の共感を提供しながら、長期のビジョンを醸す時間を奪う。アルゴリズムが選ぶのは行動経済学で言う“短期報酬”であり、そこでは物語の耐久性より刺激の強度が優先される。結果として、責任という粘り気を帯びた概念はタイムラインから滑り落ち、タグ化した優越感だけが軽やかに拡散する。

民族的アイデンティティに話を戻せば、日本人であることの意味は歴史的に幾度も書き換えられてきた。復興期には勤勉と相互扶助、冷戦期には経済大国としての競争力が語られた。現代は、環境問題や多文化共生といった地球規模の課題が迫り、境界を越える公共性が新たな負託として浮上している。それをなお国家の内向きな優越感で塗り潰すなら、尊厳は借り物の舞台装置に留まる。

もちろん、責任を引き受ける営みは抽象的な標語では足りず、地域の小さな実践からしか始まらない。子に向き合う姿勢、職場での緩やかな助け合い、遠くの災害に差し出す時間と資源。その積み重ねが殻を内側から満たし、誇りを過剰に叫ばずとも確かな手触りを与える。優越感を振りかざす声に対し、正面から否定を突きつけても溝は深まるばかりだろう。むしろ、その声が映し出す空洞に静かに目を向け、自分が担う小さな負託の輪郭を確かめる方が、遠回りに見えて議論を耕す。アイデンティとは獲得するものではなく、応答し続ける過程の中で静かに立ち上がる。