1:目的の外化と構造の逆転
一部のSNSを利用する人などに増えている認識の歪みの根底には、目的と手段の順序を取り違える構造的誤解がある。本来、目的とは内面から熟成され、時間と労力によって積み上げられるものである。その過程はしばしば沈黙と孤独、観察と反復によって支えられ、内的な圧力が臨界点に達したときに初めて、自然と外に漏れ出るようにして言語化される。
しかし現代社会、とりわけSNSを中心とした可視化社会においては、目的が肥大化する以前に、言語として外に表明される現象が常態化している。つまり、目的が形成される前に「語る」という手段が先行し、結果として本来内面で培われるべき自己効力感や自己肯定感が「語ることによって擬似的に満たされる」ようになってしまう。
この構造の逆転は、努力と成果の本来のバランスを破壊する。言葉にして外に出した時点で達成感の一部を先取りしてしまい、行動への駆動力が著しく低下するのだ。こうして「語れば叶う」という幻想が個人の中で構造的に強化されていく。
この構造の現代的な象徴の一つとして、2025年4月に与沢翼が投稿したSNSの内容が挙げられる。彼はかつてビジネス成功者・自己啓発的カリスマとして語られたが、その投稿では覚醒剤使用による破滅的な生活と、それを断ち切る決意を語っていた。そして、おそらくそれは中毒性の高い覚醒剤というものをやめなければいけない状況に自分自身を追い込むために、公に語ったのだろう。
この振る舞いは、まさに今回が指摘する「目的の外化」の構造そのものである。つまり、目的が内面で熟成し自然に言葉になるのではなく、言語化そのものを“目的を達成するための装置”として利用しているのである。彼の語りは、行動の成果ではなく、行動を引き起こす手段として言葉を選んでいる点で、逆転した構造の明瞭な実例である。
このような「語ることによって目的を成立させようとする試み」は、果たして持続的な変化や倫理的な成熟につながるのか。それとも一時的な自己暗示に過ぎず、再び語られることでのみ存在が保たれる“空虚な構造”に過ぎないのか。
2:承認欲求と記憶の書き換え
語られることの快楽、認められることの即時的な満足感。これらはSNS時代において誰もが享受可能な「小さな成功体験」となっている。しかし、語られた目的が実行によってではなく、承認によって報酬化されるとき、それは本来の記憶構造をも書き換えてしまう。
かつて目的達成に至るまでに感じていた不安や努力、孤独、そして沈黙の時間は、社会的承認という報酬を得ると同時に記憶の中で薄れていく。そして、成功体験の語りが繰り返される中で、やがてそれは「最初から外に語ったから叶ったのだ」というような逆因果の記憶へと書き換えられてしまう。
これは認知科学でいうところの“帰納的誤認”に近い。成功した人は、自らの経験の複雑な内的構造を忘れ、「言ったから叶った」という単純なストーリーに自分自身を当てはめる。ここで言語が現実を記述するものではなく、現実を偽装するための装置として機能し始める。
このような錯誤は、自己の確信を失わせるだけでなく、現実との接触感覚を希薄にし、語り続けなければ自分が保てないという構造を生み出す。まさに語ること自体が目的化し、「語られたものしか存在しない」空間が成立するのだ。
3:SNSにおける擬似社会の構造
このような構造は、SNSという空間によってさらに再現・増幅されている。SNSは現実社会のあらゆる要素、人間関係、評価、階層、演出、交換――を縮小・簡略化した“ミニチュア社会”である。ここでは、現実の時間や労力を必要とせずとも、演出と投稿によって「擬似的な成功」が成立してしまう。
「言う→評価される→成功体験を得た気になる→実行しない」というループは、構造的にモチベーションの破壊を招く。目的が形成される前に承認が得られることで、動機と結果の順序が乱れ、自己形成のプロセスが崩れていく。
特に若年層においては、このミニ社会を現実の縮図として内面化してしまい、本来の社会における努力と報酬の関係を見誤るケースが多い。これが現実とのギャップを生み、精神的な不安定や慢性的な自己否定感を引き起こす温床となる。
SNSはまた、語りを拡張し続けることを強いる空間でもある。そこでは「語り続けなければ存在できない」という一種の構造的依存が生じ、語ることそのものが自己の延命手段となっていく。これが目的と手段のさらなる混濁を招く。
4:与沢翼と構造の象徴性
この構造の象徴的な例として、最初にあげた与沢翼のような人物が挙げられる。彼は若くして急激な成功を手にし、それを大量の言語化と可視化によって社会に提示した人物である。彼のスタイルは「語ることで叶え、可視化することで拡大する」というモデルに忠実であり、その分かりやすさから多くの模倣者を生んだ。
だが重要なのは、彼の初期の成功が「言語化によって成された」のではなく、実際には市場環境、嗅覚、タイミング、集中力といった複合的な内的要因によって支えられていたという点である。しかしそれらの過程は、本人の成功語りの中ではしばしば「自己啓発的な物語」に置き換えられてしまう。
つまり、与沢は自らの成功の本質的な構造や、自身の内面でのモチベーションの積み重ねや、地道な試行錯誤と修正の連続によって成果が形づくられていったという現実を、社会的承認によって塗り替えてしまったのである。彼にとっての語りとは、本来であれば「積み重ねた行為の結果」として自然に外にあふれるべきものだったはずだ。しかし、外部の称賛が早期に与えられたことで、その順序は逆転した。
覚醒剤についての投稿もまた、構造的にはこの延長にある。彼は覚醒剤使用の破滅的な状況とそこからの脱却を語ることで、再び自己語りの構造に身を委ねている。ここで語りは「回復の記録」であると同時に、「新たな自己像の再構築」でもあるが、それはやはり“語ることで実現しようとする”逆因果のモデルに依存している。
このような人物を模倣する若者たちは、成功の“構造”ではなく“形式”だけをコピーする。その結果、語ること、演出することが目的化し、本来必要であった内的成熟や時間的積層を経ずに、「成功の記号」だけを追い求めてしまうのだ。
語ることが本質から乖離した構造の中では、自己の変化すらも「語らなければ存在しない」。与沢翼の事例が示しているのは、自分自身の過去の構造を忘却し、“成功した自分”という社会的虚像に、自らも巻き込まれてしまう危うさである。そして皮肉なことに、与沢翼がこのように目的を外化し続ける限り、彼が本当に目指すべき回復や変化の到達点には、永遠に手が届かないだろう。