民主主義が壊れる瞬間は、クーデターや戒厳令みたいな派手な出来事だけじゃない。選挙が続いているのに、政治が検証に耐えなくなり、権力の行使が説明されず、修正もされない。そういう状態が長く続くと、民主主義は手続きだけ残って中身が抜ける。いわゆる形骸化だ。
ロシアの選挙を民主主義として機能していないと言うのは簡単だ。監視や報道環境、反対派の扱いを見れば、公正な競争として成立していないという評価は出る。ただ、それだけで終えると現実を取り逃がす。制度が歪んだあとも、社会が回ってしまうからだ。そこには二つの力がある。ひとつは恐怖とコストだ。逆らうと生活が壊れる、仕事を失う、家族に波及する。もうひとつは適応だ。多数派に寄る、黙る、深入りしない、政治を自分の問題から外す。これが積み重なると、選挙は正当化の儀式になる。結果が先にあり、手続きがそれを飾る。ここまで来ると、民主主義の外形を残したまま、権力の自己増殖が可能になる。
今のアメリカはロシアと同じではない。選挙は競争的で、司法もメディアもまだ強い。ただ、形骸化に向かう条件ははっきり増えている。ここ最近、移民取締りの強化の中で、連邦当局の現場対応が人命を奪い、当局説明と市民が撮った映像・目撃の食い違いが問題になっている。さらに、拘束や収容の拡大に伴って、施設内での死亡も短期間に続いている。こういう局面で民主主義が試されるのは、事件が起きたかどうかではなく、起きた後に何ができるかだ。誰が捜査できるのか。記録は開示されるのか。責任の所在は特定されるのか。現場の権限行使は抑制されるのか。
アメリカの危うさは、もう一段ある。大統領権限の拡張が、政治的支持と結びつくことだ。大統領は選挙で選ばれる。その事実が、行政権の強い運用を民意の委任として正当化しやすくする。そこへ、固定支持層が乗る。支持率が割れても4割前後の支持が残れば、強い手段を選ぶ誘因は消えない。批判は敵の妨害として処理され、調査は政治闘争として疑われ、結果として検証が止まる。民主主義は反対意見があることで回るのに、反対意見があること自体が裏切り扱いされる方向に行く。
日本はどうか。日本もロシア型ではない。選挙は成立し、暴力装置が政治の前面に出る頻度も違う。ただ、形骸化の温床は日本にもある。それは支持率の高さと政治の閉鎖性が同居しやすい構造だ。今の政権は世論調査で6割前後の支持を得て、解散・総選挙に踏み切っている。生活費の上昇が最大の関心事で、経済と不安が政治の判断軸になる状況だ。ここで起きやすいのは、政策の細部や制度設計の検証よりも、安心できるかや変えるのが怖いかが優先されることだ。強い言葉や分かりやすい旗印が得になる。説明が粗くても通る。反証や検証が足を引っ張る行為扱いされやすい。
さらに日本には、政治資金や利権、業界団体との距離の問題が繰り返し出て、改革が部分的なまま終わりやすい土壌がある。ここが放置されると、政治は勝てる資金・勝てる組織に最適化され、競争条件がじわじわ歪む。選挙はあるのに、選べる幅が狭くなる。行政の裁量が増え、説明が減り、責任が散る。これが形骸化の典型だ。
結論は明確だ。ロシアはすでに手続きが正当化の装置になった段階にある。アメリカは、権力行使の強化と検証の弱体化が同時に進み、形骸化に向かう圧が強い。日本は、まだ引き返せるが、支持率と安定が免罪符になり、検証より忠誠、透明性より動員が優先されれば、同じ方向に行く。違いは程度で、構造は共通している。
民主主義を壊すのは、悪い指導者だけじゃない。社会が嫌でも受け入れる回路を作った時に壊れる。多数派でいたい、弱者側に落ちたくない、面倒を避けたい、敵味方の物語で判断したい。この心理が、制度のブレーキを外す。だから一番まずいのはどっちでもいいではなく、検証を放棄することだ。支持するなら支持するで、何を根拠に支持するのかを言語化して検証に出す。反対するなら反対するで、代案と手続きの話に落とす。どちらでもない顔で、強い側の運用だけが通る状態を放置する。これが民主主義を形骸化させる。