迎合オーバーフロー

進次郎の米価引き下げ策を「結局ポピュリズム」と一括りにする見方がある。これは民主政治における“大衆迎合”の質的差異を取りこぼす。

迎合には軸の有無という決定的な分岐がある。軸とは中長期で維持される政策目的であり、これが固定されている場合、政治家は民意と摩擦しながらも同じゴールに向けて手段を調整し続ける。

米価安定という一点に絞った進次郎の動きはこの型で、政策コストや制度手続きを端折る演出過多な面はあっても、目的自体の可逆性は低い。むしろ市場調整に失敗していた既存枠組みへの修正として機能し、結果責任も測定しやすい。

対照的に、一部の政党が行う目的そのものを世論やトレンドに合わせて乗り換える機会主義的ポピュリズムは、短期の喝采と交換に制度の予測可能性を破壊する。ガソリン税、消費減税、補助金などと、争点を次々と替えつつ反転を繰り返す姿勢は、効果検証の前に次の人気メニューへ移るため、政策学習が蓄積せず、財政・行政能力を摩耗させる。ここでは「民意」という言葉が検証不能な免罪符に化し、政治は社会の長期課題に正面から取り組む動機を失う。

軸の有無を無視し、手段の演出だけで両者を同列視する議論は危険だ。責任ある迎合が担う修正機構まで「ポピュリズムだから悪」と断じれば、政治は結果責任を負う動機を失い、結局は機会主義の方が居心地の良い舞台になる。

批判の矛先は迎合そのものではなく、目的が可換であるかどうかに向けるべきだ。軸付きの迎合は民主主義を補強し、軸なき迎合は社会をじわじわと壊す。この単純な区別を放棄した瞬間、言説はポジショントークへ堕ち、真に危うい政治手法を野放しにする。