選挙戦略に利用される群衆──財務省デモについて考える

近頃、日本の財務省前で数千人規模のデモが繰り広げられている。彼らは財務省こそが増税を推し進め、自分たちの生活を圧迫する元凶であると主張し、その解体を訴える。しかし、この光景には強い違和感を覚える。

第一に、デモの参加者の半数か、それ以上は、政府が5年で43兆円という軍事費の桁外れな拡充を決定した際には、ほとんど異を唱えなかった層と重なる。むしろ、国防のためには当然の支出であると受け入れ、それを支える財源について深く考えることもなかったはずだ。それにもかかわらず、いざ増税の現実が突きつけられると、彼らは財務省を批判し、自分たちこそが被害者であるかのように振る舞う。自ら賛成しておきながら、そのことはすっかり忘れ、今になって怒りの矛先を向けるのだから、呆れてものが言えない。

財政のバランスを考えれば、どこかに予算を配分するためには、どこかで財源を確保する必要があるのは明白だろう。公平な社会を維持するためには税収が不可欠であり、特に低所得層ほど公共サービスや社会福祉の恩恵を受けている。にもかかわらず、彼らは減税を求め、それがもたらす影響についての想像力を欠いている。皮肉なことに、もし減税が実現した場合、最も苦しむのは多くの中流階級・貧困層の国民である。福祉が削られ、公共サービスが縮小される未来を直視しようともせず、ただ目先の不満を財務省にぶつけているに過ぎない。

さらに、この騒動の背後には、SNSという特殊な空間が大きく関与している。インフルエンサーや著名人たちが、この問題に「関心があるふり」をして飛びつき、インプレッション数やアクセス数を稼ぐために無責任な発言を繰り返している。彼らにとって重要なのは問題の本質ではなく、数字の伸びだ。そうした発信によって、理性的な議論はますます不可能となり、憎悪や陰謀論が加速していく。しかし、問題はそれだけではない。

このデモの背後には、単なる関心を装ったインフルエンサーだけでなく、より大きな意図を持つ「仕掛け人」たちが動いており、兵庫県知事選挙や都知事選などで活躍した選挙戦略家が、この騒動を利用しようとしているのが見て取れる。彼らは知識のない大衆を煽り、政治的な目的のために群衆を動かすことに長けている。財務省解体デモは単なる抗議ではなく、彼らにとっては「選挙戦のトリガー」にすぎない。人々の怒りを意図的に増幅させ、次なる選挙で何らかの結果を生み出すことを狙っているのだ。兵庫県知事選挙で見られたように、理性的な議論を省き、大衆の情緒に訴えかける手法が繰り返されようとしている。今回のデモも、まさにその一環として仕組まれていると言える。

SNSという空間は民主主義の枠組みを持たない。現実の社会では、誰かが誤った行動をすれば注意を受け、場合によっては法の下で裁かれる。しかし、SNSにはそうした規範がない。そこでは、誰もが自分の思うままに発言し、無責任な情報が拡散される。誹謗中傷が飛び交い、詐欺まがいの広告が溢れ、言葉の暴力が放置される。言うなれば、SNS上の人間関係は、理性も規範も未発達な、原始時代の部族社会に近い状態にある。そこには統治も秩序もなく、知識のある者とない者が混在し、誤った情報に煽られた集団が暴走する。しかも、彼らは断片的な知識を持つがゆえに、自らの無知に気づくことができない。

このデモの根底には、日本社会が長年にわたり自らの選択と責任を直視しなかったという問題もあるだろう。特に、安倍政権下で進められた積極財政政策を振り返る必要がある。安倍政権は「デフレ脱却」の名の下、大規模な金融緩和と財政出動を行った。異次元の金融緩和によって市場に大量の資金を流し込み、円安を誘導しつつ、公共事業や補助金を積極的に拡大した。これにより、短期的には株価の上昇や企業収益の改善が見られたが、同時に日本の国家財政は急速に膨張した。国債発行額は増加の一途をたどり、借金による経済運営が常態化した。

しかし、こうした財政政策に対して、当時の国民の多くは支持を寄せた。特に、経済成長の恩恵を受けた層は「このまま行けば景気は回復する」と信じ、財政赤字の問題を直視しなかった。その結果、日本の国債依存度は極限まで高まり、現在の厳しい財政状況を招いたのである。ところが、当時安倍政権を支持していた人たちは過去の責任を顧みることなく、今になって財務省を「増税の元凶」として糾弾しているのだ。

現状を批判することは容易い。だが、その現状を作り出したのが自らの選択であったことを認めなければ、何も変わることはない。にもかかわらず、多くの者は問題の本質を理解するよりも、簡単な敵を作り上げ、そこに怒りをぶつけることを選ぶ。そして、そうした怒りを利用しようとする者たちが確実に存在している。彼らにとっては、財務省が解体されるかどうかはどうでもいい。ただ、大衆を動かし、政治の流れを変え、自らの思い描く結果を作ることが目的なのだ。怒りに駆られた群衆が、その意図に気づくことはないまま、また新たな騒動へと導かれていく。そうして、責任を負わない者たちによって、社会はいつまでも漂流し続ける。