難民や移民を不可視化する社会

難民や移民が社会で虐げられる背景には、他者の痛みがどのように「見える」かという構造的問題がある。第一に、人が深い共感を示すためには、自身の傷や痛みと向き合った経験が大きく影響する。制度としての道徳や規範が存在しても、個々の行動を駆動するのは内的な痛みの記憶と応答の回路であり、それが欠けると共感は表層で止まる。

第二に、難民・移民の苦境は社会の視野で不可視化されやすい。統計、国境、経済合理性、治安リスクといったレンズは彼らを人格ではなく機能や問題項として描き直すため、深刻な苦痛が悲劇として認識されにくい。その結果、歴史的な奴隷制度が持っていた「痛みを黙殺する」という構造が形を変えて持続している。痛みが情報ノイズとして切り捨てられ、労働力という交換価値だけが抽出される限り、搾取は再生産される。

現代社会では教育や研修が一定の重みを持ち、痛みを共有しなくても援助行動を誘発する経路が拡張している。想像的共感や制度訓練によって救済が機能する事例も増えたが、この仕組みは排斥や恐怖の物語を増幅する方向にも働き得る。共感の回路が右にも左にも振れやすいという可塑性は、制度だけでは制御しきれない。

以上より、難民や移民を取り巻く問題は法的地位や可逆性の有無よりも、社会がどのフレームで彼らを写すかに左右される。痛みを「見えるもの」として確定させる視点の再設計が、支援と排斥の行方を決定する。