AIで露呈した「学力」の中身

眼鏡が普及してから、裸眼の視力の良さは、以前ほど決定的な能力ではなくなった。視力が悪くても、眼鏡をかけて普通に見えているなら、実用上はそれで足りる場面が多いからだ。

たとえば、視力は悪いけれど眼鏡をかけて安全運転ができ、事故も起こさない人と、視力はいいけれどスピードを出すのが好きで、自分の運転に絶対の自信を持ち、それが原因で過去に事故も起こしている人がいたとして、どちらを雇うのかと言われれば、多くの人は前者を選ぶはずだ。ここで見られているのは、裸眼の性能ではなく、現実の中でどれだけ安定して正しく扱えるかだからである。

AIで起きていることも、かなり近い。

これまで社会は、記憶力が高いこと、勉強ができること、処理が速いこと、正答率が高いことを、かなり強い比重で「学力」や「頭の良さ」として扱ってきた。もちろん、それらに意味がなかったわけではない。知識へ到達する手段が限られていた時代には、実際に大きな力だったと思う。

ただ、その力がそのまま現実を正しく扱う能力だったのかというと、そこは別の話だった。

学力は並でも、AIを使いながら事実を確かめて、およそ8割から9割は妥当で正確な判断ができる人と、学力も記憶力も高いが、自分の判断や立場に自信を持ちすぎるあまり、5割程度は誤りや不当な判断をしてしまう人がいたとして、どちらを雇うのかと聞かれれば、ここでも多くの人は前者を選ぶはずだ。問われているのは、知識量そのものではなく、現実の判断をどれだけ外さないかだからだ。

ここで見えてくるのは、頭のいい人の価値が消えたという話ではない。社会が長く「学力」と呼んできたものの中に、認識の正確さとは別のものがかなり混ざっていた、ということだ。

記憶、処理速度、受験への適応、正答の再現。そういったものは測れていた。けれど、何を疑うべきか、何を確認すべきか、自分の立場がどこで認識を歪めるのか、そういう部分はあまり測られてこなかった。それでも社会は、その二つをかなり長く同じものとして扱ってきた。

AIが入ると、そのズレが見えやすくなる。知識不足そのものは補いやすくなるからだ。すると逆に、もともと見えにくかった差が前に出る。どれだけ覚えているかより、どれだけ確かめられるか。どれだけ処理が速いかより、どれだけ判断を外さないか。重心が少しずつそこへ移る。

SNSで起きている混乱も、この延長で見ると分かりやすい。語彙が多いとか、学歴が高いとか、物知りであるとか、それだけでは判断の精度を保証しないことが、以前より露呈しやすくなった。少し調べれば粗さが見えるし、少し照合すれば飛躍も見える。逆に、派手な肩書きがなくても、丁寧に確認しながら話す人のほうが、結果として認識を外しにくい。

だから、AIが人間を優秀にしたというより、社会が何を能力として高く評価してきたのか、その基準のほうを露呈させたと見たほうが近いと思う。

要するに、今起きているのは能力の消滅ではない。評価基準のズレが見え始めたということだ。眼鏡が普及したあとに、裸眼の視力だけで人を測る意味が薄れたように、AIが普及したあとに、記憶力や学歴だけを過剰にありがたがる意味も薄れていく。本当に問われ始めているのは、その人がどれだけ知っているかより、どれだけ現実を外さずに扱えるかである。