共産主義やマルクスを批判する人の気持ちは、とてもわかる。私自身、理念だけを声高に掲げて、自分の矛盾や都合の悪い部分には目を向けない人たちがあまり好きではない。
ただ、そこで思う。日頃から共産主義やマルクスを強く批判している人たちは、いまのトランプの振る舞いや、日本の政治の劣化や権力の乱用にも、同じ基準で苦言を呈しているだろうか?もちろん、反共であっても権力の暴走をきちんと批判する人はいる。けれど私が目にする限り、多くの人たちは、批判そのものを嫌い、むしろ批判する声を抑え込もうとする行動ばかりに見えることがある。
そういう姿を見てしまうと、彼らが本当に嫌っているのは共産主義の中身や歴史的帰結なのか、それとも「自分の陣営を揺さぶる批判」そのものなのか、わからなくなる。結局、マルクスや共産主義ですら、理解や検証の対象ではなく、対立軸を固定して味方を固めるための記号になっている。要するに、自分たちの陣営をより強化する道具として使われているだけではないか?
- 裸の王様を笑えるのは、笑う側がまだ服を着てる時だけ。国民まで裸なら、笑う相手はどこにもいない。むしろ裸を指摘された瞬間に逆上して、服を着た人を殴りに行く。日本もアメリカもこの寓話をいま堂々と実演中。
探偵!ナイトスクープの話を見て、インスタとかに子どもの写真を、ある程度大きくなってからも載せ続けてる親って、やっぱりどこかおかしいところがあるんだな…と改めて実感した。
Googleマップの口コミ全削除する方法、そのうち無料公開しちゃおうかなぁ。
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日本では、有権者は政策の成果で投票先を判断するというより、「自分がどの側に属しているか」という所属アイデンティティ(+相手側への嫌悪)で動く傾向が強く、離脱=裏切りになるよう社会全体が設計されている気がする。特に、貧すれば鈍するような状況ほど、その結束はむしろ強固になるのかなと思う。
ひさしぶりに、いろいろ暗躍する案件が舞い込んできた。表に出ずに裏で動いて、あれこれコントロールするの、やっぱり本当に好きだな。
サイト全体を微調整。
WhisperTyping、有料化になったんだね。無料版だと90分までしか使えなくなったみたい。
枠がなくなったら、もう有料にするしかないよね…衆議院解散ってことで、久しぶりにテレビニュースがどう報じてるのか見てみたんだけど、正直ひどくてびっくりした。
まず、インフレとか国債発行の話が、テレビだとほとんど扱われていない。触れても本当に少しだけで、背景とか論点の整理まで踏み込まない感じがする。
統一協会の問題や裏金の件も同じで、表面は出すけど、内部を細かく調査していく仕組みとか、どこがどう検証できていないのか、そういうところまで掘っていかない印象だった。
たとえば消費税減税の話も、メリットとデメリットの論点が雑に紹介されているだけで、結局「どういう条件なら得で、どういう条件なら副作用が出るのか」みたいな話にはあまりならない。
全体を通して際立っていたのは、視聴者に嫌われないように作ってる報道、っていう感じ。だから、支持率が高いと、仮に間違った行動があっても、それをきちんと批判する動きが出にくいんだな、っていう点に、改めて驚いた。

Xユーザーのvittorioさん: 「Why Young Women Moved Left While Young Men Stayed Sane」 / X
この記事を見た上での私の感想になる。
社会では価値観や生き方の選択肢が増えている。これは事実。ただ、それをそのまま「社会がリベラル化した」と呼ぶのは雑すぎる。
そもそも保守的な立場が同じ場所に留まり続けるなら、社会は制度や技術や生活様式を積み上げていく。増えているのは「リベラルという思想」じゃなくて、使える手段や選べる道、主張のバリエーションの数。そこを右か左かの位置取りゲームにしてしまうと、現実の変化の意味が全部ねじれる。
この前提に立てば、人の価値観が積み上がって多様性が生まれるのは当たり前で、それをもって「社会全体がリベラルになった」と断定するのは論理をして成り立たない。多様化は「左に寄った」じゃなくて、「選択肢が増えた」という現象になる。
そして一番おかしいのは、その雑なラベルを口実にして、権力側が非自由主義へ傾き、強制力や暴力で人を統制しようとすることだ。価値観が増えることは抑圧の理由にならない。問題は多様化そのものじゃなく、それを恐れて自由を削り、統制に走る統治のあり方のほうだろう。
権力や影響力を得る過程では、原理原則の実現よりも「勝つ・維持する・崩れない」が必須タスクとして乗り、目的関数が複合化する。すると原理原則は目的から交渉カードへ降格し、「守るための例外」が積み上がって運用から変化する。さらに権力獲得のルート自体が妥協や沈黙に耐える人を選別し、原理原則を制約として抱える人ほど脱落しやすい。だから失われるのは善悪ではなく、非交渉の境界線としての原理原則の優先権である。ただし防ぐには、原理原則を目標ではなく制約として先に固定し、決定権を分散し、記録と説明責任を外部に開く仕組みが要る。そして降りられる余地(地位や名誉への依存を減らす)があるほど、例外の連鎖は起きにくい。
アメリカで、何の罪もない一般市民がICEによって殺された。にもかかわらず、保守を名乗る人たちが黙り込んでいるのは、一体どういうことなんだ?
チャーリー・カークが殺された時には、「左翼がやった」と声高に騒いでいた人たちがいたよな。あの人たちは、いったいどこに消えた? ※そもそも、あの時の犯人は右翼だったけどな。
そもそも左右とかどうでもいい。結局、ポジション争いと対立の中で自分の居場所を守るためなら、今回みたいに人が死んでも構わないということなのか?そんなものは、思想でも主義主張でも何でもない。何故今回の事件のことについては触れようとしない?
都合のいい時だけ正義を叫び、都合が悪くなった瞬間に黙る。その沈黙は「中立」じゃない。加担であり、暴力そのものだ。
普遍化できない肯定は、倫理というよりもはや利害でしかない。
今回のベネズエラの件で問題だと思うのは、決定的な想像力の欠如。
社会のルールは本来、最初から多様な価値観や概念が走れるように作られてる。だからこそ、そのレールがきちんと設計されていれば、互いに妥協しながら運用できて、攻撃・迫害・差別が安易に生まれない。よくできたレールは、多様な価値観が走っても他人を踏みつけにくいように作られた仕組みだ。
ところが今回みたいに「攻撃を容認するレール」を敷いた瞬間、話が変わる。多様な価値観が妥協し合って回っていた社会に、攻撃の正当化が運用可能な選択肢として入り込む。すると、そのレールの上では、どんな価値観や概念でも同じ攻撃を「正しい」と言えてしまう。攻撃が各陣営の言葉で承認される状態になる。
では、次も自分たちが攻撃されない保証はどこにあるのか?そんなものはない。むしろ、さまざまな価値観がそれぞれの正義で攻撃を容認できるようになった時点で、いずれ自分たちが攻撃される側に回る。
結局「自分は標的にならない」前提でしか肯定できないなら、それは正義ではなく利害で他人を食い物にしているだけだ。
最近まで私は、物事には筋を通し、矛盾をなくし、合理的に説明できることを最優先してきた。
社会の場、契約や安全や責任が絡む場では今もそれが必要だと思う。けれど心の中や創作、思想や哲学の領域では、整合性が取れない感情や、不条理な問いを抱えたまま歩く時間が要る。矛盾を受け入れてこそ、見えないものが見えてくることがある。
早く正しさを決めたり、説明で固めたりすると、芽が出る前に切り捨ててしまい、視野が驚くほど狭くなる。世界が平面になり、人間理解も痩せていく気がする。
私は合理性を捨てたいのではない。合理性を絶対にせず、道具として出番を管理したい。状況によっては矛盾を内包し、結論や他者への影響が出る場面だけ検証に戻る。この切り替えで、内側は広がり、表現も自由になる。少なくとも今はそう感じている。
早熟って、賢さの証明というより自己像の早期固定だと感じる。世間は断言の速さや「分かりやすい完成」を好むから、早熟を過剰に持ち上げ、本人も周囲も像を守り始める。そうなると思想は探究より防衛に寄り、多様な視点はノイズ扱いされ、矛盾に耐える幅が削られる。本当は、結論を少し遅らせ、条件付きで話し、黙る余白を残す方が健全。
だから、早熟で尊敬してた人が、気づいたら自分より後ろにいたって経験をしたって人はそれなりにいるんじゃないかな。最初は眩しく見えたのに、年を重ねてるのに昔と言ってることが変わらない。深まるというより固まっていく。こちらが世界の複雑さに揉まれて視点が増えるほど、相手は完成したまま動かない。成長が止まったというより、止まることが求められ、止まることで守られてしまったんだろうと思う。
親子って、近いからこそ意思疎通できない部分がある。育ってきた環境が違う。年齢の壁がある。倫理や論理の基準も同じじゃない。だから、言葉を尽くせば全部わかり合える、みたいな発想は現実とズレていることがある。むしろ、わかり合えない前提を受け入れたほうが関係は安定する。
そのとき必要なのは、理解力がある側が先に受け入れることだと思う。相手の言い分を正しいと認めるとか、こちらが折れるとか、そういう話じゃない。「そう感じてる」ことを否定しない。そこから初めて、伝えたいことが伝わる余地が生まれる。
そして、これは親子に限らない。上司と部下でも、世代の違う他人同士でも同じだ。立場が上とか、経験が多いとか、言語化できるとか、その差があるほど、先に受け入れる責任はそっちに寄る。理解とは勝ち負けじゃなくて、関係を壊さないための技術かもしれない。

