心が貧しい時ほど、善行をすると心が救われる気がするのは、たぶん自我に張り付いた未練や執着を、ある程度洗い流せるからだと思う。
アリストテレスも、近いことを言っている。善行はその場の気分を飾るためのものじゃなくて、魂の状態(ヘクシス)を整えるための訓練だと。
これもリサイクルショップで見つけた版画で、価格は1,000円だった。
調べてみたら、これは秋田県出身の版画家、池田修三(1922–2004)の木版画作品。タイトルは「しおん」で、制作年は1974年。多色摺りの木版画で、下の方には作者の直筆でサインとタイトル、制作年が鉛筆で書き込まれている。
池田修三は、子どもたちのあどけない表情や日常の情景をテーマにした作品で知られている版画家で、この作品もまさにその代表的なスタイルの一つ。秋田県の象潟町(今のにかほ市)出身で、晩年は風景画も描いていたけど、基本的にはずっと「子ども」をテーマに作品を作り続けていた人らしい。
ちなみにこの作品は、普通にGoogleで画像検索すると同じものが出てくるので、作者やタイトルはすぐ確認できた。
いま美術品の販売サイトやオークションを見ると、状態や額装にもよるけど、だいたい3万6千円から4万1千円くらいで売られている例があるみたい。
それを1,000円で買えたので、これもなかなか面白い掘り出し物だった。

これはシルクスクリーン版画で、エディションナンバーは「26/31」と読める。つまり31部限定のうちの26番。右下には「’82」と見えるので、1982年の作品だと思う。左下にはサインが入っているんだけど、反射していて最初はかなり読みづらかった。
それでサインや画風をいろいろ調べてみたところ、この作品は 灘本唯人(なだもと ただひと) の可能性がかなり高そう。
灘本唯人は1926年生まれのイラストレーターで、日本のイラストレーション界ではかなり有名な人。女性の後ろ姿をシンプルな線で描くスタイルとか、ユーモラスでちょっとエロティックな雰囲気の表現が特徴で、「灘本式美人画」と呼ばれる独特の作風がある。この作品も、ネイビーの背景にシンプルな線で女性を描く感じや雰囲気がかなり一致している。
いろいろ候補になりそうな作家も調べてみたんだけど、池田満寿夫とか宇野亞喜良とか他の作家は作風や版画の特徴が微妙に合わなくて、総合的に見ると灘本唯人が一番しっくりくるという結論だった。
ちなみにこの作品、リサイクルショップで500円くらいで売られていたものなんだけど、もし本当に灘本唯人のオリジナルシルクスクリーンだとすると、市場価格的にはだいたい5万〜15万円くらいはしてもおかしくないんじゃないかと思ってる。
そう考えると、なかなか面白い掘り出し物だったかもしれない。

これも作者不明で売られていた版画。
この版画は、レンブラントの弟子、17世紀オランダの画家 アドリアン・ファン・オスターデ の作品をもとに作られた銅版画。オスターデは、農民の暮らしや酒場の風景みたいな当時の庶民の日常を描いたジャンル画で有名な画家。
ただ、この紙の版画そのものをオスターデが作ったわけじゃない。オスターデの絵をもとに版画用の下絵が描かれて、それをさらに銅板に彫って版画として仕上げた職人がいる。
この版画の場合、その銅版を彫って実際に版画を作ったのが、ナポレオン時代のフランスで活動していた彫版師 シャテニエ(Chataigner) と エドム・ボヴィネ(Edme Bovinet)。
つまり、この作品は「オスターデの絵をもとにして、後の時代にフランスの彫版師が制作した銅版画」という位置づけのもの。
ちなみにこれは2000円で買えたんだけど、状態もかなり良いし、彫版師のレベルや時代を考えると、実際の価値としてはだいたい 20万〜30万円くらいあってもおかしくないんじゃないかな と思ってる。もちろん市場や来歴によって上下はするけど、少なくとも数千円のものではない感じはする。

こないだ作者不明で売られていたエッチング画。価格は1,200円。
サインを拡大してみると「Luigi E. Mattei」と読めるように見える。エディションは「1/30」、つまり30部限定の版画で、そのうちの1番。技法はエッチング(銅版画)だと思う。
サインの形や技法、作風などをいろいろ調べてみたところ、この作品は Luigi Enzo Mattei(ルイジ・エンツォ・マッテイ)というイタリアの芸術家の作品である可能性がかなり高そう。
Luigi Enzo Matteiは1945年生まれのイタリア人の芸術家で、主に彫刻家として知られているけど、版画作品も制作している。宗教美術の分野では評価が高く、「教皇の彫刻家」と呼ばれることもある人物らしい。ローマ版画芸術アカデミーの正会員でもあり、作品は世界各地の美術館に収蔵されているそう。
今回の作品は、そのマッテイが制作した30部限定のオリジナル銅版画(エッチング)で、直筆サインとエディション番号が入っているもの。
つまり整理すると、この作品は Luigi Enzo Mattei(ルイジ・エンツォ・マッテイ)によって制作された銅版画作品ということになる。
おそらく市場価格は5万~8万程度。それにしても、これが1,200円で手に入ったのはなかなかラッキーだった。私自身の前提が、「欠けた日常」や「生活の傷」、あるいは失ったものによって形づくられているのだとしたらそれは、死ぬまで私から失われることはないのだと思う。社会の思想や価値観がどれほど移り変わっても、私の根底は揺らがないし、そしてそれが、社会にとっての尊厳でもあるのだから。
息子が、初めて友達を家に連れてきた。思った以上ににぎやかで、2日かけてきれいに掃除した部屋が、たった1時間でぐちゃぐちゃになった。でも、子どもが騒いでるのを見てると、なんだか嬉しくなる。自分にもこういう時代があったな、と思い出したよ。
正解がある世界って、けっきょくデータと手続きが土台になってる。SEOだろうがカメラだろうが投資だろうが、前提を揃えれば「まあこうだよね」って収束しやすい。でも思想とか価値観の話になると、そこがいきなり崩れるんだよね。
まず事実が揃わない。見てる情報が違う。次に言葉が揃わない。「公平」とか「自由」とか、同じ単語を使ってるのに中身が別物。で、決定的なのが責任が消えること。言いっぱなしでも平気だし、間違ってても痛くない。そうなると、目的が理解じゃなくなる。勝つこと、叩くこと、仲間を集めること、目立つこと。議論ってより、空気の取り合いになる。
しかも今の拡散の仕組みって、丁寧さより断定、理解より怒り、検証より嘲笑のほうが強い。時間もないから複雑な話は嫌われて、短い敵と短い答えが好まれる。結果、議論の最低限の条件は放っておくと簡単に剥がれる。
SNSでは「円安っぽい」空気が強かったけど、実際の値動きとしてはそう単純じゃない。選挙後の流れで、要人発言、とくに日銀がタカ派寄りに見える発言をしたことで、結果としては多くの通貨に対して円高方向に動いた。これは事実として確認できる。
ただ、このあたりをSNSで見ていると、自分のポジションやイデオロギーに合わせて「結果の解釈」を塗り替えたり、都合よく前提を差し替えたりする言説が目立つ。そこに引っ張られて惑わされると危ない、というのは今回ひとつ勉強になった。
要するに、政治系インフルエンサーみたいにSNSの感情の流れで話す人たちって、右だろうが左だろうが、市場の思考とは別物なんだなってことがよくわかった。市場は基本、数字(過去・現在・未来)しか見ていない。数字がどう動くか、どう織り込むか、そこが中心で、政治的ポジションそのものは存在しない。政治はあくまで「材料(アクションの一つ)」にすぎない。
ここを誤解すると、判断の軸がズレて、結果的に間違った行動をしてしまうんだな、っていう話。
正当性を把握できたとしても、それが現実に機能するかどうかはまったく別の問題だ。社会に対して一定の批判的視点を持っていたとしても、それが公共空間でどの程度作用するのかを考えたとき、ほとんど機能しない局面があるという点だ。
具体的には、他の手段が十分に出揃っていない状況では、批判は一定の効力を持ちうる。ところが手段が乱立してくると、それぞれは効率の衝突になる。そうなると、批判という手段は相対的に機能しにくくなり、正当性を担保する議論というより、別の優劣に回収され消えてしまう。
さて、今週から新しいことにチャレンジする予定。とりあえず、書類を色々まとめていかないと。
良い哲学・倫理・概念・論理(以下哲学に統一)は、悪い環境でも完全には消えるわけではないが、行動として発揮される比率が落ちる。
逆に、良い環境だと発揮される比率が上がる。つまり、哲学は常に一定の出力を持つエンジンじゃなくて、路面状況(睡眠、ストレス、孤独、衝動、金銭不安、承認不安など)でトラクションが変わる駆動系だと考える。
良い哲学=美しい結論、ではなく
良い哲学=状態が悪いときでも破綻しにくい運用設計を含んでいること哲学の内容の優劣ではなく、再現性(どの状態でも同じ方向に働くか)が重要になる。
私はAIと頻繁に対話し、その応答を鏡として自分の評価軸を点検し、思考の盲点を減らし、相対的にいまどこに立っているのかという座標を取り直すことに大きな効用を感じている。
他者の目線という異物を自分の中へ一度入れてみることで、言語化の歪みや自己像の過信を矯正できる手応えもある。
しかし同時に、ひとつの危惧にも気づいた。それは評価の主権がいつの間にか外部へ流出し、他者の基準を「参照」するつもりが「委譲」へとすり替わり、判断の責任が静かに空洞化していくことだ。
とりわけ疲労や不安や焦りで内的基準の出力が弱まったときほど、即時に返り、言語化が巧く、否定も少ないAIのもっともらしさが鎮痛剤のように作用して、点検のための対話がいつの間にか結論の受領へ変質し、外部のもっともらしい基準だけで自己を測る状態へ傾いていく。
その結果として起きうるのは、自分が何に価値を置き、何を恐れ、何を守ろうとしているのかという一次情報が薄まり、相対座標ばかりが肥大して、自分の存在ポイントが曖昧になっていくという現象である。
AIとの対話が自己理解を深める装置であると同時に、こちらの状態次第では自己の輪郭を奪う装置にもなり得る。
物事を判断するときに「いまの自分の判断力がどの程度まともに機能しているか」を指標として置く必要があると考えている。特に、倫理や哲学、価値観や概念がある程度言語化されている人ほど、この確認を飛ばしやすい。言葉が整っていると、判断の正しさそのものより先に、説明の整合性が正しさの証明のように働いてしまうからだ。
けれど実際には、人の判断は状態に左右される。感情、疲労、焦り、睡眠、空腹、ストレス、ホルモンバランス。そういうものが少し崩れただけで、同じ前提や価値観を持っていても、判断は簡単に歪む。つまり問題は、理念や倫理があるかどうかではなく、それを運用できる状態かどうかにある。
だから私は、結論の前に「いまの自分は判断に耐える状態か」を点検することが重要だと伝えたい。これは単なる慎重さではなく、自分が普段掲げている倫理や哲学が、現実の判断としてきちんと働いているかどうかを確かめるための、実務的な安全装置だと思っている。
1つ前の文章の補足。感情で決めざるを得ない場面はあって、そこで例外を許す基準を「不可逆性」で切る。判断の軸は、個人を守ることと全体が受ける不利益を天秤にかけ、その損害が取り返しのつくものかどうかで優先順位を決める。
助けない場合に、特定の誰かが不可逆的な重大損害を受けるなら、救助を優先する余地がある。不可逆とは、生命の喪失、重い身体障害、回復不能に近い生活基盤の破壊など、後から埋め合わせが効かない状態を指す。救助によって全体が被る不利益は、回復可能で致命傷ではない範囲に収まることを条件にする。
逆に、救助によって全体側が不可逆的な大損害や致命傷を負うなら、共感だけで介入は担保されない。両方が不可逆になり得るなら、被害の規模と確率を比較し、より大きい不可逆を避ける方向に寄せる。
不確実性が高いときほど、例外の発動条件は厳しくする。介入する場合でも、最小限・期限付き・代替案優先で影響を局所化する。判断には根拠を添え、事後検証をした上で、次のケースに反映させる。例外は「一度きりの情」ではなく、再現可能な手続きとして扱う。こうして感情を運用に戻すことで人間性が担保される。
金融取引を少しやって分かったのは、物事にはまずルールがあって、その枠の中で運用を積み上げるほど技術が上がるということ。トレードでも、エントリー条件や損切りの基準があるからこそ、短期のノイズやストレスに飲まれずに判断できる。感情や価値観、哲学は本来、行動の動機や踏ん張りの燃料であって、ルールの代わりになるものじゃない。燃料がハンドルを握った瞬間、方向はブレるし、暴走も正当化される。
ルールは全体に対して比較的公平に働くが、感情は人や状況で振れ幅が大きく、社会全体では誤差になる。その誤差を「正義」や「当然」で塗り固めると、手続きや制約を飛び越える免罪符になり、分断やイデオロギーが強化され、その帰結は矛盾となって弱者に向かう。政治でも同じで、陣営の感情を最優先にすると、合意形成より敵味方の勝敗が目的になり、共同体よりラベルや陣営に最適化して人間が劣化していく。文明は、感情を抑え込むというより、感情を手続きに載せて扱うルールを発達させてきたはずだ。
ところがSNSは、強い感情ほど拡散され、承認され、報酬が返ってくる設計になっていて、感情が手続きを押しのけやすい。結果として「ルールを運用し続ける耐性」そのものが社会から薄れ、あちこちに矛盾と劣化が起きている。これは知能指数などの問題ではなく、制約の中で動き続ける力が落ちている、という話。




