1. 精神的疾患の構造的伝播・共鳴と模倣の前提条件
精神的な病気、特に統合失調症や抑うつ症、境界性パーソナリティ障害のような重度の精神疾患は、当事者だけでなく、家族や親密な関係者にも深刻な影響を与えることが知られている。これを「構造的共鳴」「心理的同調」「環境的模倣」として捉える動きは、20世紀後半から加速し、以下のような研究が代表的である。
- エクスプレスド・エモーション(Expressed Emotion)
統合失調症患者と同居する家族の感情表出(批判、敵意、過保護)は、患者の再発率を高めるだけでなく、家族自身の心理的安定にも悪影響を及ぼす(Brown et al., 1962)。 - ミラーニューロンと構造模倣
人間は他者の行動や情動だけでなく、意味生成の構造そのものを模倣しうる(Rizzolatti & Craighero, 2004)。共に暮らす人物の精神構造を「共鳴」的に内面化してしまう危険がある。 - 感情伝染(Emotional Contagion)
Hatfield, Cacioppo & Rapson (1994) は、特定の情動や精神状態が言語的・非言語的手段を介して無意識に伝染し、うつ状態や不安が拡散する現象を指摘した。
これらの知見は、精神疾患が「個人的な病」にとどまらず、構造的・関係的な影響力を持つことを示唆している。ただし、こうした「共鳴構造」と、SNSや政治要因などによって社会全体が陥る「構造退行」とは、類似こそしているものの、必ずしも同一のメカニズムではない。記事では、これらを区別しながら考察を進める。
2. はじめに・問題の輪郭
現代社会では、政治・経済から個人の生活意識に至るまで、「構造の退行」と呼ばれる現象が広範に起きていることを指摘したい。これは単に精神的ストレスや不安が増えただけではなく、「意味生成の構造(meaning-making system)」そのものが後退している可能性を示す。
ロバート・キーガンの発達理論などを踏まえて考えれば、SNSやメディア環境がこうした退行の誘因として大きな役割を果たしていることが明らかになる。ここでは、その背景を整理し、さらにこうした退行傾向に対処するうえでの倫理的・実践的課題を検討する。
3. 構造の退行:個人レベルと社会レベルの差異
3.1 個人・家族内の構造的揺らぎ
精神疾患の当事者を取り巻く環境では、当事者の言動や情動が周囲に「伝播」し、家族や近い人々の思考パターンや認知枠組みを揺さぶることがある。これは、意味の一貫性や相互理解が崩れる空間で長時間生活することに起因し、ミラーニューロンや感情伝染がその基盤となる。
3.2 社会規模での構造退行
一方で、社会レベルでも、政治的・経済的・文化的要因やSNSの影響で「構造の退行」が生じる場合がある。ロバート・キーガンの理論を社会に当てはめると、高次段階の倫理観や合意形成が崩れ、より反応的・依存的な段階へと逆行している状況が認められる。ここでは、個人の精神疾患が周囲に伝染する現象と社会全体の退行との間に「構造が揺らぐ」という類似点があるものの、要因や影響範囲が異なる点に注意が必要だ。
4. ロバート・キーガン理論の応用
ロバート・キーガンは人間の内面構造を以下の段階で捉え、特に第4段階(制度的自己)と第5段階(構造的自己)の成熟を重視する。
- 第3段階(関係的自己):他者の評価や関係性に依存
- 第4段階(制度的自己):内的原則や価値観に基づく自律的な意味生成
- 第5段階(構造的自己):多元的・俯瞰的な視点で自他を捉えられる
4.1 個人・家族レベルでの退行
たとえば、家族内に重度の精神疾患を抱える当事者がいると、周囲の人までが心理的に引きずられ、一時的に第4段階から第3段階以下に退行することがある。過剰なストレスや共鳴が、その人の安定した意味生成基盤を揺るがすからだ。
4.2 社会レベルでの退行
政治やSNSの影響で社会全体が短絡的・衝動的な言説に支配されると、共有していた理念や合意形成のプロセスが崩壊し、社会自体が「制度的自己」から「関係的自己」へ逆行するかのように見える。両者の要因は異なるが、「成熟した構造が揺らぐ」という点では共通しており、いずれも退行に抵抗するための仕組みが求められる。
4.3 類似点と相違点
個人レベルの場合は、心理的・神経的仕組み(感情伝染、ミラーニューロンなど)が主に作用し、社会レベルの場合は、メディア経済や政治制度が大きく影響する。それでも高次段階からの逆行を防ぐには内省が不可欠という結論においては共通しており、キーガンの理論は両面を考察する上で有用な枠組みとなる。
5. 哲学的補強:ハイデガー、フーコー、ジジェク
構造的退行という概念は、哲学の領域でも複数の思考家によって論じられてきた。
- ハイデガー:「頽落(Verfallen)」
人間が本来的な自己性を失い、周囲の価値や通念に没入する危機を指摘。個人レベルの疾患伝播や社会全体の大衆迎合にも通じる側面がある。 - フーコー:「規範の内面化」
社会・制度が個人を規律・訓練する装置として機能し、当事者が無自覚に従属する構造。SNSを新たな監視・訓練装置とみなせば、思考や行動の水準が低次化する可能性がある。 - スラヴォイ・ジジェク:メディア批判
SNSやメディアが「参加の幻想」を与えつつ、実際には定型化されたパターンを強化する装置として機能し、主体性と合意形成を形骸化させる。
6. 心理学的裏付け
- ミラーニューロンと構造的模倣
他者の行動や感情だけでなく認知構造までも模倣しやすい神経基盤が、個人間の「伝播」を説明する。統合失調症の重度症状が家族に影響するのはこのためである。 - 社会的比較理論(Festinger)
SNSでの絶え間ない比較によって、外的評価への依存が高まり、自律的な意味生成(第4段階)が確立しにくくなる。社会全体も「評価の多寡」に巻き込まれると制度的成熟が阻害されうる。 - Sherry Turkle:「常時接続社会」
常時接続で深い内省の時間が減ると、個人の成熟を阻害し、社会的な議論も浅薄化しがちになる。 - ヴィゴツキーの社会文化的発達理論
個人の発達は環境に強く依存する。短絡的・断片的なコミュニケーションが蔓延すれば、高次の思考枠組みを保つのは難しくなる。
7. SNSの構造的問題
SNSは、個人間の構造的共鳴を強める一方で、社会規模の構造退行も加速させる要素を備えている。主な問題としては以下が挙げられる。
- 承認欲求の制度化
外的指標(いいね・フォロワー数など)に極端に依存するため、内的基準が育ちにくい。 - 感情の拡張装置
感情的な投稿が拡散されやすく、熟慮的・構造的な言説が埋もれがちになる。 - 情報の断片化と刹那性
短文や刺激的な映像が中心となり、連続的・内省的な思考が難しくなる。 - 構造的思考の空洞化
タグやバズワードの表層に流れ、内面的な思考プロセスを深める機会が減る。 - 言論の演技化
「敵か味方か」といった劇場型の対立が優先され、真の理解や合意形成が後回しになる。
こうした動きを放置すると、より高次の公共合意や倫理観を維持することが難しくなり、個人と社会の両面で退行が促進される。
8. 内省の欠如と構造的退行の加速
8.1 ポピュリズムと大衆迎合
政治家やカリスマ的リーダーがポピュリズムに傾き、短期的な人気取りに走ると、中長期的な理念や価値観が軽視される。大衆迎合が蔓延すると、社会全体の議論の質が低下し、結果的に低次段階の思考へと引きずられやすくなる。
8.2 知性や論理力と内省の乖離
知性や論理力が高い人でも、内省を欠くと短絡的な結論や感情煽動に陥る危険がある。一見高度な主張に見えても、根底の構造が浅薄だと、社会全体を巻き込み、退行を先導してしまう可能性がある。
8.3 内省を回復するために
- 公開討論や熟議の文化
瞬時の反応ではなく、時間をかけた対話を重視する場を意識的に設ける。 - 政策決定の透明性
ポピュリズムを抑制し、有権者が論拠を確認できる制度設計を進める。 - 個人レベルの意識改革と教育
批判的思考やメタ認知を育む教育を重視し、自分の思考を客観的に点検できる力を養う。 - 多元的価値観の尊重
単一の物語やカリスマに盲従せず、社会に多様な視点が共存できる空間を確保する。
9. 結論・この危機にどう立ち向かうか
SNSによる情報革命は、人間の「意味の作られ方」「自己の構築」「倫理の共有」のあり方を根本的に変容させている。個人レベルの精神疾患の「伝播」と、社会レベルでの構造的退行は、発生要因や規模は異なるものの、ともに「意味生成の基盤が揺らぐ」という点で類似性を持つ。
こうした状況を克服するには、構造的力学の可視化と高次段階を維持できる内省的態度が鍵となる。具体的には、以下のような方策が挙げられる。
- 哲学的対話や熟慮の場の拡充
短絡的な承認欲求や感情煽動ではなく、根本的な価値や理念を再検証する。 - 意味生成の共同体の形成
安易なバズや断片情報に流されない深い対話を促進するコミュニティを育てる。 - 新たな「構造的空間」の検討
SNSとは異なる仕組みで、熟慮や長期的ビジョンを支えるプラットフォームを模索する。 - 内省を社会倫理として位置づける
個人の成熟だけでなく、社会全体の思考水準を高めるために内省を不可欠と捉える。
いずれにせよ、個人が自らの思考プロセスを客観的に点検し、社会的にも成熟を支える文化や制度を築く取り組みが必要である。両者の類似点と相違点を理解しながら、それぞれのレベルで退行を食い止め、高次の意味生成と倫理を再確立することが、この記事の提案する方向性である。