SNSは正義を決めない

エイプリルフールですら冗談の逃げ場でなくなってきたことに、妙な息苦しさを覚えるようになった。風刺や皮肉は、笑いのうちに毒を含ませることで社会を照らしてきた。それが今では、少しでも空気を外せば「不謹慎」として瞬時に叩かれる。冗談の意図や文脈を汲み取ることなく、まず否定し、即座に批判を投げつけ、時に相手を傷つけることすらいとわない。

不可解なのは、そうした反応を示す人々が、例えば保守であれば「言論の自由」を、リベラルであれば「多様性」を普段は掲げている点にある。両者は異なる理念を語っているようでいて、どちらも結局は感情に突き動かされているだけではないかと思えてくる。

彼らが守ろうとするのは思想や理念ではなく、「自分にとって心地よい世界」だ。保守は「言論の自由」を掲げながら、自分の価値観に反する表現には強く反発する。リベラルは「多様性」を口にしながら、自らが受け入れやすいものだけを「他者」として扱う。その行動原理は不思議なほど似通っている。どちらも理屈ではなく、好悪の感情に従って判断しているに過ぎない。

だが本来、「言論の自由」も「多様性」も、自分と異なる立場や状況を理解し、それを受け入れる寛容さを前提として成り立っているはずだ。それは本来、静かな覚悟を伴う営みであって、自己を飾る装飾ではない。理念は、掲げることによって優越感を得るための飾りではなく、自らに課す約束だ。

問題は、そうした感情の動きがSNSの上で「正義」の名を与えられてしまうことにある。共感の数、怒りの量、拡散の速さ。それらが発言の価値を測る物差しと化していて、内容そのものの是非はほとんど顧みられない。

本来、表現の自由とは不快な表現に対しても耐えうることで支えられるものだし、多様性とは異質なものを含むことで初めて成立する。だがその基本が、今ほど忘れ去られている時代もない。

議論よりも反射、理解よりも同調。そんな環境では、言葉が意味を持つはずもなく、思想は表面的なラベルに矮小化される。

正義とは、そんな軽率な仕組みで決まるようなものではない。SNSは正義を決めない。